野宮定功
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野宮 定功(ののみや さだいさ、文化12年7月26日(1815年8月30日) - 明治14年(1881年)1月10日)は、幕末から明治時代にかけての公卿。藤原北家師実流野宮家の当主。父は正二位権大納言野宮定祥。正室は従一位権大納言広橋胤定の娘。子に野宮定平・養子に野宮定美(久我建通の子)・野宮定毅(竹屋光有の子)がいる。
安政5年(1858年)外交措置を幕府に委任する決定に反対し、万延元年(1860年)和宮降嫁の御縁組御用掛を務めた。文久2年(1862年)武家伝奏となり、公武間の折衝にあたった。元治元年(1864年)権中納言になり、慶応元年(1865年)正二位に昇叙される。明治維新後、皇后宮大夫に就任。明治14年(1881年)1月10日、67歳で没した。『野宮定功公武御用記』などを著した。
[編集] 参考文献
- 小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年
- 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年