迅鯨型潜水母艦
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迅鯨型潜水母艦 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 潜水母艦 |
艦名 | |
前級 | 駒橋 |
次級 | 大鯨 |
性能諸元 (迅鯨竣工時) | |
排水量 | 基準:5,160英トン 公試:7,678トン |
全長 | 125.4m |
全幅 | 水線幅:16.215m |
吃水 | 6.283m |
機関 | ロ号艦本式缶6基(長鯨は5基) パーソンズ式ギアードタービン2基 2軸 7,500馬力 |
速力 | 16ノット(計画)[1] |
航続距離 | 10,400カイリ / 14ノット |
燃料 | 石炭:402トン 重油:2,047トン[2] |
乗員 | 364名(長鯨は399名) |
兵装 | 50口径三年式14cm連装砲2基 40口径三年式7.6cm単装高角砲2基 |
航空機 | 水上偵察機1機(後日搭載[3]) |
その他 | 補給用重油:1,900トン |
迅鯨型潜水母艦(じんげいがたせんすいぼかん)は、日本海軍の潜水母艦。同型艦は2隻。日本海軍で潜水母艦として建造された初めての艦である。
目次 |
[編集] 概要
日露戦争後に海軍はアメリカを仮想敵国とした八八艦隊を計画した。その中には潜水艦の増備も含まれており、これらの母艦として迅鯨型水雷母艦(計画当時、潜水母艦という艦種はなかった)が大正9年度に計画(八八艦隊案)された。当初の計画では排水量14,500トンクラスの予定だったが、ワシントン海軍軍縮条約によって規模が縮小され、8,500トンとして計画、実際に完成した時には更に1割ほど軽く完成した。また当時海軍は補助艦艇の建造に際し、できるだけ建造費用を少なく抑えようとしており、本型も商船型の船体を採用したり、廃艦となった戦艦土佐のボイラーを流用するなどして建造費の圧縮をはかった。
潜水艦への補給能力としては呂号潜水艦9隻の整備および補給、作戦指揮を行うことができ、敵艦と遭遇した際の戦闘用として、14cm砲4門と当時の天龍型軽巡洋艦なみの砲力を持っていた。さらに、昭和5年ころより水上偵察機を1機搭載したが、このことは戦前は機密事項であった。
友鶴事件の際には、本艦型も復元性不足の対策として舷側にバルジを装着している。
昭和に入り大型、高速の伊号潜水艦が潜水戦隊の標準となると母艦の能力が不足となった。また速力も伊号潜水艦の方が速い(21ノットから23ノット)という事態になり、旗艦能力にも問題が出てきた。そのため伊号潜水艦への旗艦任務は5,500トン型軽巡洋艦が務めるようになった。老朽化の問題もあり「大鯨」「剣埼」が就役すると艦隊を離れ練習艦となった。しかしまもなくその2艦が空母へ改装されたため、老齢ながら潜水戦隊旗艦に返り咲いた。ただし新鋭の伊号潜水艦の旗艦は5,500トン軽巡と特設潜水母艦の組み合わせに任せ、本型は幾分旧式の呂号潜水艦と機雷潜の旗艦を務めることとなった。
太平洋戦争緒戦では「迅鯨」はクェゼリンへ、「長鯨」はカムラン湾に進出して同方面の潜水艦戦を支援した。1942年(昭和17年)4月から1943年(昭和18年)暮れまでは第7潜水戦隊の旗艦を交代で務め、その後は2艦共に瀬戸内海にあり練習艦となった。1944年(昭和19年)8月からは沖縄方面の輸送任務に従事したが任務中に「迅鯨」が撃沈される。「長鯨」は練習艦に戻り、そのまま終戦を迎えた。戦後は復員輸送艦を務めた後、解体されている。
[編集] 同型艦
[編集] 参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0463-6
- 福井静夫『海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦』(KKベストセラーズ、1982年) ISBN 4-584-17203-1
[編集] 脚注
- ^ 計画では16ノットだが実際には18ノット近く出たとされる(『海軍艦艇史 3』p270より)。
- ^ 『海軍艦艇史 3』の巻末表による。
- ^ 「迅鯨」は1928年以降、「長鯨」は1930年以降、一四式水上偵察機を搭載。
[編集] 関連項目
大日本帝国海軍の潜水母艦、潜水艦母艇 |
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豊橋 | 韓崎 | 駒橋 | 迅鯨型:迅鯨 , 長鯨 | 大鯨 | 剣埼型:剣埼 , (高崎) | (5034号型) 潜水艦母艇:硯海 | 歴山 | 椅子山 ■テンプレート/■ノート
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