谷口清超
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谷口 清超(たにぐち せいちょう、1919年10月23日 -)は第2代生長の家総裁。広島県広島市出身。生長の家創始者・谷口雅春の娘婿。東京大学文学部心理学科卒業。実父はかつて裁判官をしていた荒地清介、実母は荒地多加代。
東京帝大卒業後、戦争の激化で軍役に就くものの、すぐ肺を病み療養のため病院に入院。そこで相部屋の上等兵より谷口雅春の『生命の實相』を見せられ、その教えに感動する。終戦後、「万教帰一」を唱える雅春は、GHQの厳しい思想統制に対して西洋の光明思想を翻訳・紹介する文筆活動を開始、その翻訳助手を募集する広告を新聞に掲載。それを見た荒地清超はすぐに上京し、谷口宅を訪問。ここで後に妻となる、雅春の一人娘である谷口恵美子と知り合う。その後、荒地清超の人間性と才能を高く評価していた雅春夫妻は、恵美子との結婚を提案する。清超は驚きながらもそれを承諾、1946年11月13日に2人は結婚し、清超は谷口家の養嗣子となる。実は心の中では清超と恵美子はひそかに互いを思いあっていたことが後に判明する。
本部の機構改革により、1957年に谷口雅春が教団の総裁に就任すると、清超は教団の副総裁に就任し、以後雅春とともに全国各地の講習会での指導、各種発行雑誌への執筆などを精力的に行い、雅春を補佐した。1978年の龍宮住吉本宮落慶以後、谷口雅春・輝子夫妻が長崎へ移住した頃から、徐々に事務面での実質的な教団運営を行いはじめたとみられ、1983年には生長の家政治連合の活動を停止するなど、右翼的な色合いの強い運動の修正などを実施していく。
1985年6月17日に谷口雅春が死去すると、同年11月22日に生長の家総本山にて行われた「生長の家総裁法燈継承祭並びに新総裁襲任生長の家秋季式典」において、第2代生長の家総裁に就任した。同時に妻の谷口恵美子は、雅春の妻・谷口輝子より、白鳩会総裁の地位を引き継ぎ、第2代生長の家白鳩会総裁を継承。
1989年より両軸体制をスタートさせ、組織面の改革を実施。1990年には、当時教団の副理事長であった二男・谷口雅宣を副総裁に指名、就任。その後1993年には「国際平和信仰運動」を旗揚げするなど、純粋信仰面を強化した教団運営を行った。
2005年2月頃より体調を崩し、以後東京の総裁公邸(実質的な自宅)にて療養中。現在は総裁業務の全てを副総裁に委託(よって副総裁は総裁代行を兼務)し、会員向けの「機関誌」3誌への共通原稿執筆のみを行っている。これは教団の最高法規である「生長の家教規」で、総裁の任期は終身であると定められているためである。
家族は、1947年に長女、1948年に長男(出生後1年経たずに昇天)、1950年に二女、1951年に二男、1955年に三男がそれぞれ誕生。うち、現在教団運営に直接的に関わっている人物は、二男の雅宣のみである。なお孫が16人(男8人、女8人)おり、曾孫もいるという。
文書伝道をモットーとする教団であり、清超も100冊以上の著書を出版している。