藤原公季
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 公季(ふじわら の きんすえ 天暦10年(956年) - 長元2年10月17日(1029年11月25日))は、平安時代の公卿。藤原北家摂関流、右大臣師輔の十男。伊尹、兼通、兼家、為光(いずれも太政大臣、為光を除く三人はさらに摂関を歴任)は兄、村上天皇の皇后安子は姉。
村上天皇の同母姉康子内親王を母として生まれ、生後まもなく母が亡くなったことから幼少時は宮中で育てられた。公季が皇子顔にふるまったことを円融天皇が嘆いたという。藤原冬嗣の邸宅だった閑院殿を公季が伝領し住んだことから、閑院大臣の別称があり、その子孫は閑院(家)流と呼ばれる。
公季は一条・三条の両朝を通して内大臣の任にあり、娘義子を一条天皇の弘徽殿女御にして後宮布石を進めたが、皇子女が得られず失敗に終わった。後一条朝には老臣として治安元年(1021)太政大臣に昇進し、死後正一位の極位を賜った。晩年の彼が特別に目をかけた嫡孫公成は、生前の官位こそ中納言どまりであったが、死後、娘茂子(藤原能信養女)が生んだ皇子が白河天皇となったことで一族の運を開き、祖父が成し遂げなかった事業を意外にも完成した。以後、院政期には閑院家の女子が後宮を制覇することになり、公成の孫(公季の5代孫)にあたる権大納言公実の三子によって分立した三条、西園寺、徳大寺を筆頭に、この系統の公家は堂上家で25家を数える。
[編集] 系譜
- 妻:有明親王の女
[編集] 略歴
- 康保4年(967年) 元服 侍従
- 康保4年(967年) 左中将 備前守
- 天元4年(981年) 従三位
- 天元6年(983年) 参議
- 寛和2年(986年) 権中納言
- 永祚元年(989年) 東宮大夫
- 正暦2年(991年) 中納言 正三位
- 長徳元年(995年) 大納言
- 長徳2年(996年) 左近衛大将
- 長徳3年(997年) 内大臣
- 寛仁元年(1017年) 右大臣 皇太弟傳
- 治安元年(1021年) 太政大臣
- 長元2年10月17日(1029年) 死去。正一位を追贈。甲斐公を封ぜられ、仁義公の諡号を賜る。
[編集] 関連リンク
- 厨子王を助ける「閑院大臣」は公季とされている。