藤原為光
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藤原 為光(ふじわら の ためみつ、天慶5年(942年)- 正暦3年6月16日(992年7月23日))は、平安時代中期の公家。藤原師輔の九男。母は醍醐天皇の皇女雅子内親王。正室は藤原敦敏の娘及び異母兄藤原伊尹の娘。子に誠信、斉信、道信、藤原忯子(花山天皇女御)、藤原義懐室らがある。諡は恒徳公。後一条太政大臣、法住寺殿とも称される。
天暦11年(957年)に従五位下に叙爵し、冷泉天皇即位とともに蔵人となる。以後、安和元年(968年)左中弁に任じられ、円融天皇即位とともに蔵人頭などを歴任した後、天禄元年(970年)参議となった。
異母兄である伊尹・兼通から可愛がられ、天延元年(973年)に先任参議6名を飛び越して権中納言に抜擢され、同時に従三位に除せられる。天延3年(975年)に中納言となり、翌年に正三位に叙せられる。貞元2年(977年)には正二位大納言となり、兼通から疎んじられていた異母兄兼家を超え、大納言筆頭となる。だが、兼通の死後に兼家が右大臣に就任して再び為光を超えることとなり、兼家と将来の摂関の地位を争うこととなる。
花山天皇即位後、天皇の要望を受けて娘・忯子を入内させた。忯子は天皇の寵愛を受け、父親である為光も内給所を任されるなど、外戚で為光の義弟・婿でもある藤原義懐と並んで重きをなした。だが、忯子の急死と花山天皇の出家、続く一条天皇の即位とその外祖父・兼家の摂政就任によって、為光の野心は挫折することになる。だが、兼家は左大臣源雅信に対抗するために為光との連携を図り、寛和2年(986年)右大臣に任じられて、翌987年(寛和3年)には従一位に叙せられた。その一方で、これによって為光は兼家及び嫡男・道隆親子の風下に立つことになった。正暦2年(991年)に道隆の推挙で太政大臣に任じられたが、翌正暦3年(992年)に没してしまった。死後、正一位が贈られ、相模国を封じられた。邸宅の一条院は姪の藤原詮子に相続された。
法住寺を建立したことでも知られる。日記に『法住寺相国記』がある。
[編集] 参考文献
- 山本信吉『摂関政治史論考』(吉川弘文館、2003年)ISBN 978-4-642-02394-8