芝大神宮
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芝大神宮 芝神明宮 飯倉神明宮 |
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所在地 | 東京都港区芝大門1-12-7 |
主祭神 | 天照皇大御神 豊受大御神 |
社格等 | 准勅祭社 府社 |
創建 | 寛弘2年9月16日(1005年10月21日) |
例祭 | 9月16日 |
芝大神宮(しばだいじんぐう)は、東京都港区芝大門に鎮座する神社である。旧称芝神明宮、飯倉神明宮、通称「関東のお伊勢様」。明治元年11月8日(1868年12月21日)より准勅祭社。明治3年9月1日(1870年9月25日)准勅祭社制度の廃止に伴い、東京府社となる。
目次 |
[編集] 歴史
- 一条天皇の御世、寛弘2年9月16日(1005年10月21日)、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)の二柱を御託宣により創建。平成17年(2005)、御鎮座以来、1000年を迎えた。
- 建久9年(1198)4月、源頼朝が社参し、1300余貫の神田の寄進を受ける。
- 建武4年1月7日(1337年2月8日)、足利尊氏の実弟、足利直義執筆と伝われる戦捷祈願に対する報賽の書状を奉納。同書状所蔵。また、戦国時代、太田資長(道灌)の崇敬を受ける。
- 大永年間(1521~1527)、近村より出火し、さらに大風のため、類焼。
- 天正16年7月24日(1588年9月14日)、北条氏直による柴村に対しての制札を発布。同書状所蔵。
- 天正18年7月19日(1590年8月18日)あたりに、豊臣秀吉、奥羽平定のため、江戸進発の際、戦捷祈願。同年8月1日(8月30日)、徳川家康、江戸に入府の際、社参。
- 天正19年11月28日(1592年1月12日)、武蔵国日比谷郷に社領15石の寄進を受ける。以後、歴代将軍家・幕府の庇護を受け、社殿の造営・修復等は幕命により執行。また、幕府より種々の祈祷依頼があり。例えば、四代将軍徳川家綱誕生に際し、安産祈願執行。諸大名よりも崇敬され、例えば、越前福井藩主松平忠直母清凉院による本社修復。薩摩藩主島津吉貴は、鹿児島の地に、当神社御祭神を勧請す。現在の鹿児島市清水町鎮座の多賀神社に伝わる。
- 慶長3年(1598)8月、増上寺が現在の地(港区芝公園)へ移転に伴い、同地に鎮座していた当神社は、現在の地(港区芝大門)に奉遷する。
- 慶長5年9月1日(1600年10月7日)、徳川家康、関ヶ原へ出陣の際、社参し、戦捷祈願をする。慶長19年~同20年の間に、大坂布陣の徳川方の戦捷祈願をするべく、将軍徳川秀忠の正室お江与の方(崇源院)の代参として徳川家光の乳母である春日局が社参をする。
- 明暦3年(1657)1月の大火により類焼。寛文元年(1661)8月再建。
- 宝暦12年2月16日(1762年3月11日)、大火により類焼。安永9年(1780)11月再建。
- 文化2年(1805)年2月、境内で「め組の喧嘩」が勃発。
- 文化3年(1806)年3月4日(1806年4月22日)、類焼。文政7年1月5日(1824年2月4日)、類焼。嘉永3年2月5日(1850年3月18日)、類焼。安政2年10月2日(1855年11月11日)の大地震により、再建半ばで再度倒壊。
- 明治元年(1868)10月、明治天皇東幸の際、本社に内侍所として小休する。同年11月8日(1868年12月21日)、准勅祭社となる。
- 明治2年7月3日(1869年8月10日)、朝廷より長雨の為、止雨祈祷の依頼あり。
- 明治3年9月1日(1870年9月25日)、准勅祭社制度の廃止に伴い、東京府社となる
- 明治9年(1876)1月4日、火災により焼失。明治10年(1877)3月再建。
- 大正12年(1923)9月1日、関東大震災により倒壊延焼。昭和2年(1927)8月、本殿等主要建造物再建。昭和13年(1938)12月、完全再建。
- 昭和20年(1945)5月26日、東京大空襲により焼失。昭和22年(1947)1月13日、本殿再建。
- 昭和39年(1964)9月12日、本殿再造営完工。
[編集] 神社名
- 明治維新政府の教部省・太政官正院並びに東京府の許可のもと、明治5年8月30日(1872年10月2日)より、現今の神社名である芝大神宮を称す。もともと、当神社は、単に神明あるいは神明宮と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから、日比谷神明(日比谷神明宮)。また、飯倉御厨が存し、武蔵国飯倉庄ともいわれたから、飯倉神明(飯倉神明宮)。さらに、芝の地に住民が居留して、町並みの様相を呈するに及び芝神明(芝神明宮)とも称されるに至った。因みに、文政10年(1827)の江戸幕府による「御府内備考」編纂のための史料たる「地誌御調書上帳」(文政寺社町方書上)の「寺社書上」では、表紙には芝神明社。当該神社から幕府に提出した書面では、飯倉神明宮となっている。
[編集] 神職
鎮座以来、西東(さいとう)家の当主が代々、神主を継承していたが、11世紀末あるいは12世紀初頭、別家を立て、両西東家にて神主職を継承。文政年間(1818~1829)、別家西東家後継無き処、北品川稲荷(現:品川神社)神主小泉家より神主家職継承し、家名小泉をそのままとして別当(僧侶)とともに三頭体制で社務を執行した。 因みに神主の下には、大禰宜(鏑木家当主代々継承)・禰宜(定員七名。守屋、中原、多田、増尾、為川、河野、田中の七家があり、各当主が代々禰宜を継承)そして社地役人(川嶋家代々当主継承)がいた。 別当は、臨海山遍照寺金剛院の首座であり、建久5年(1194)芝海辺あたりに開基と伝承する。比叡山延暦寺末、東叡山寛永寺末。
明治元年(1868)神仏分離政策により、別当は廃され、神主が首座となる。明治5年(1872)には、祠官に名称が変わり、(祠官の下は、祠掌)、明治27年(1894)には、社司(社司の下は社掌)、さらに昭和21年(1946)6月には、現行の宮司(宮司の下は、禰宜)と名称が変遷する。 この内、明治7年(1874)11月~明治11年(1878)5月の祠官には、稲葉正邦。 明治11年(1878)7月~明治12年(1879)6月。明治15年(1882)4月~明治22年(1889)11月。明治28年(1895)8月~明治30年(1897)5月までの祠官・社司には、諏訪忠誠。 というように、江戸幕末の老中経験者が勤めたことはあるものの、概ね、子爵の貴族が祠官・社司に就った。
[編集] 祭神
[編集] 摂社・末社
(現在は、本社に合祀)
明治9年(1876)1月、当神社炎上により焼失するまでは、境内には下記の摂社・末社(主祭神)が各々鎮座していた。
摂社―住吉神社 表筒男命、中筒男命、底筒男命。当神社境内には戦前まで泉頭という池泉があり、御手洗社を建立し、住吉三柱神(明治初期には、大綿津見命に祭神が変更された。)を池泉の守護神として祀り、当神社の摂社とした。寛永10年(1633)3月、三代将軍徳川家光が鷹狩りに出向いた時、目にゴミが入り、難渋していたところ、同池泉の水で洗うと、たちどころに快癒したという。感じ入った家光は、老朽化した社殿等の造営に着手し、当神社への尊崇の念を篤くした。一方、その評判を聞きつけた江戸市民は、その後、同池泉に参詣し、眼病快癒を祈請したという。これにより、当神社は眼病平癒の謂れが生じる。
末社
- 春日神社 天児屋根命
- 熊野神社 伊邪那美命
- 須賀神社 須佐之男之命
- 事代神社 事代主命
- 氷川神社 健速須佐之男命
- 八幡神社 応神天皇
- 浅間神社 木花咲耶姫命
- 市杵嶋神社 市杵島姫命
- 諏訪神社 健御名方神
- 天満神社 菅原大神
- 淡島神社 少名彦名神
- 宝禄稲荷神社 保食神
- 福寿稲荷神社 和加産毘命
- 稲荷社三社 宇賀魂神
その後、合祀が行われ、また、関東大震災などにより焼失し、 昭和11年(1936)9月12日には、末社一社が再建され、下記が同社に合祀された。(旧末社、主祭神、御神徳の順)
しかし、第二次世界大戦の戦火で焼失し、現在は本社に合祀されている。
出雲社 | 大国主命 | 穀物・商業・商売 |
三島社 | 事代主命 | 商業・商売・穀物・誓約・鎮魂・仲裁 |
金刀比羅社 | 大物主命 | 酒 |
熊野社 | 伊弉冉命 | 子授け・教育・結婚 |
諏訪社 | 建御名方命 | 柔道・相撲 |
浅間社 | 木花開耶姫命 | 安産・美容・理髪・生花 |
戸隠社 | 手力男命 | 力・力量 |
淡島社 | 少彦名命 | 温泉・医療・医薬品・敷物・病魔退散・ |
八幡社 | 品陀和気命 | 安産・和歌・文学・衣料 |
春日社 | 天児屋根命 | 塾・文章・文学・和歌 |
福寿稲荷社 | 宇迦之魂命 | 食品・穀物・商業・商売 |
住吉社 | 大綿津見命 | 海上・航海・海運・漁業・水難除け |
氷川社 | 須佐之男命 | 冤罪免除・和合・造船・海運・航海・酒 |
天満宮 | 菅原道真公 | 受験・学問・学校・書道 |
実禄稲荷社 | 保食神 | 食・農業・山林・牧畜・漁撈・革・家祓い |
弁天社 | 市杵島姫命 | 海路・航海・海上 |
※当神社は、大国主命、少彦名命、事代主命を祀るため、算賀(還暦・古稀・喜寿・米寿など)加護 となる。
[編集] 由緒
伊勢神宮の内宮・外宮の御祭神を祀ることから、関東における中心的な役割を担い、関東のお伊勢様といった尊称が生じた。
当神社鎮座由来について「文政十年書上」によれば、武蔵国豊嶋郡日比谷郷に両宮太神宮を勧請奉(まつ)る由来は、一條院御宇(ぎょう)寛弘二巳年(みのとし)九月十六日にあたりて、御神幣(ごしんぺい)並(ならびに)大牙(たいが)一枚此地(このち)に降り玉(たま)ふ、村中の老少男女集まりて、これいかさまにも神明のあまくた(天降)り玉ふへ(べ)きしるしなるへ(べ)しと、あや(怪)しみ奉(まつ)る所に、いつ(づ)くともなく幼女壱人その所にあゆ(歩)み来たり、顔色変し(じ)て口はし(走)りていわく、我ハ(は)これ神風や、伊勢の内外の両宮の神也、これより東国にあたりて軍(いくさ)の事あるゆゑに、常陸国鹿嶋の地に降臨し、その軍兵を退治し、ほと(ど)なく帰座の路におよぶ、我この所に跡をとゝ(ど)めんとおほ(ぼ)しめす(思し召す)なり、此故(これゆえ)に二種のしるし(璽)をあらわ(顕)して、先汝等(まずなんじら)に示す、はや(早)く宮社を営みをさ(修)め祭るべし、いかにもとうと(尊)み敬(うやま)はば、末の世までも此所栄(このところさか)へ賑ひてめて(で)たかる(目出度かる)へ(べ)し、我又守りの神とならん、相模国の内に藤原姓西東氏のもの(者)あらん、是をまね(招)きて神職の長となし宮仕へ(みがづかえ)をさせよとて、神明あか(別)らせ玉へハ(ば)、少女あとかた(跡形)なくう(失)せにけり、村中このきとく(奇特)によりて、う(打)ち置かたく、小宮を造りて御神幣と大牙を宮にをさ(修)め奉(まつ)り、西東氏の人を尋ねしかハ(ば)、相州足柄の内に西東氏の人あり、御託宣にまか(任)せてまね(招)き寄せ家をつく(造)りて神職をつかさ(司)と(執)らしめ、同月廿一日ニ(に)神事をおこな(行)ひ勤めしとそ(ぞ)、
その宮殿の在(あり)さまハ(は)、東にむか(向)ひ鎮座有(あり)て、前なる馬場先、数十間にして、樹木並びに生(な)して、其中間中間に三の鳥居、二の鳥居あり、就中(なかんずく)、一の鳥居ハ(は)東の海辺にありて汐のさ(注)し引<き>、鳥居の元(もと)にいた(至)りて、網干あり、此海つら(面)東南につつ(づ)(続)きて向ふハ(は)安房上総隔(へだたり)なし、浜つつ(づ)(続)きに海人住て漁いとま(暇)あらず、後ハ(は)阿佐布(麻布)の台よりして東国往来の道路につつ(づ)(続)けり、北ハ(は)桜田郷の地にして其川の流れを桜川と号して、末ハ(は)社辺に流れ来れり、夫(それ)より東北にあたりて、わづ(僅)かなる川あり、此河上ハ(は)宮殿の後より流て末ハ(は)東の海へ流れり、此川のあたりは深田多くして田舎あり、宮殿のめぐ(廻)り田畑にて農民数多耕作をなす、或ハ(は)菓を作り、又生姜を作ることに優れて、五穀豊饒の地たるによりて、往昔穀倉の建し時より称したる地名残りて民俗飯倉領と号<す>、また、飯倉村とも称しなら(倣)ハ(は)せり、然共(しかれども)、質素の時なる故、讒(わずか)の神祠を営<み>、神託にまかセ(せ)て、神職一家を立て神事祭礼と(執)り行ひて、数年の星霜を経、後鳥羽院御宇建久四年壬丑年、右大将頼朝卿下野国那須野に発向し玉(たま)ふ時、当地の宇多川に [只今、宇田川町往還ニ(に)有之候(これありそうろう)、桜川の流末、大下水の流にても可有之哉(これあるべきや)に候得共、聢(しか)ト(と)難定候(さだめがたくそうろう)] 至りて帯(おび)し玉(たま)へる御太刀ぬ(抜)けて水底に沈ミ(み)ける、水練のもの(者)をめ(召)して、さが(探)しもと(求)めさす(摩)るに、さらになし、ここにかたハ(は)ら(傍ら)に人ありて申すよ(呼)ふ(ぶ)、此川上に神明の宮ところおハ(は)(坐)します、そのうしろ(後ろ)のかた(方)より瀬ありて水みなぎ(漲)る水底に物ありて光はな(放)つ、是尋ね玉(たま)ふ所の御劔なるへ(べ)しと申<す>、右大将きこ(聞)し召<し>、彼男を案内者として神明に御参詣ありて、やがてうしろ(後)の瀬にして、太刀をもと(求)め得(え)玉(たま)ひ、直ニ(に)神明の御宝殿におさ(納)め玉(たま)ひ、御神徳を感し(じ)たま(給)ひ、此所におゐて千三百貫の菜地を御寄附あり、其翌年より社殿甍を琢(みが)き、屋宮軒をならへ(べ)神前の警固怠らす(ず)日にま(増)し、繁栄斜ならす(ず)所の民俗悦(よろこび)の眉をひら(開)けり、神領菜地いよいよ豊饒なる神徳のいちし(じ)る(著)しきを尊称し、飯倉神田と号し、ますます神威、盛にして当国近在の民俗にいたる迄尊敬かき(ぎ)(限)りなし、ことに当地社人数多有之故(これあるがゆえ)、毎年正月にハ(は)多摩川入間川をさか(境)へ、国家安全の祈念おこた(怠)らす(ず)、神事祭礼厳重たり、其後、建武年中、尊氏公よりも判物を給り、弥(いよ)以(もって)国家の祈念怠る事なく、当社の神徳他国よりも尊敬あけ(げ)(挙げ)てかそ(ぞ)(数)ふべからず、然し処に長禄年中、太田左衛門佐持資入道道灌、豊嶋郡荏土(江戸)の地に始て城を築て居城の地となれり、其後、北条早雲関東を手入、相州小田原に居城せられ、関東の神社仏閣庄園をお(落)とせし時より当社の領地も削られ、衰微に及へ(べ)り、此時社人等多く退散して玉川(多摩川)入間川に出<て>執行し、国家の祈念退転に及へ(べ)り、然れと(ど)も御鎮座所ハ(は)昔にか(変)はらず事足る侭に古きを追ふの神事祭礼怠る事なく、年を経しに江城北条家に属し遠山左衛門尉に至<る>迄居城ありけれと(ど)も、戦場止時なきころなれハ(ば)、聊(いささかも))城主よりの祈祷書通(とおり)までにて宮殿にも纔(わずか)の経営たりしに、天正年中、家康公関東御領地の時に至り始めて御入国の時、当宮へ御参詣有て鎮座由来、御尋(おたずね)ありしに前段の縁起等委(くわし)く言上せしかハ(ば)、旧地の神域御尊敬の余り飯倉におゐて神明領御寄附ありて、其以後関ケ原御出陣の節も御参詣あつて御願望あり、程なく御開運ニ(に)て当地御在城の地に定めさセ(せ)給ひ、当地へも時々の御祈祷怠りなく、御尊敬ましまし(益々)、今におゐて天下泰平国家安穏御祈祷怠慢なく丹誠を抽(ぬき)むで神徳いよいよ盛なり、敬白
※文中における尊氏は過誤で、足利直義。太田左衛門佐は過誤で、太田左衛門大夫。遠山左衛門尉=江戸城代遠山丹波守直景を指すか?
[編集] 神楽
[編集] 巡礼
東京十社(准勅祭社)
[編集] 境外社
※現在、本社に合祀。
- 皆田稲荷
- 産千代稲荷
- 潮干稲荷
- 智童稲荷
[編集] 年間行事
- 当神社の例祭期間は、9月11日から9月21日までと長期間「だらだら」と続くため、古来より、「だらだら祭り」とも言われている。
- 貯金祭は、現りそな銀行(旧あさひ銀行・旧協和銀行)につながる不動貯蓄銀行を設立し、貯金王と称された牧野元次郎(1874~1942)の偉業を称え、昭和32年(1957)、同銀行関係者により境内に貯金塚(碑文は、武者小路実篤筆)が建立され、以後、毎年、貯蓄・貯金の加護祈請を執行している。
- 節分祭当日には、「半鐘祭」が執行されている。これは、当該神社氏子域を管轄する江戸町火消しの「め組」衆が参詣し執行している。当神社は、文化2年(1805年)2月に境内で起こった「め組の喧嘩」の舞台であり、この半鐘を鳴らしたため騒ぎが大きくなったといわれる。半鐘は遠島処分になり明治時代になって当神社に戻ってきた。
1月 | 1日 | 元旦祭 | 9月 | 第三月曜日 | 敬老祭 |
第2日曜日 | 成人祭 | 11~21日 | 例大祭 | ||
2月 | 3日 | 節分祭 | 16日 | 例大祭祭儀 | |
11日 | 紀元祭 | 秋分の日 | 秋分祭 | ||
3月 | 7日 | 祈年祭(大祭) | 10月 | 第3月曜日 | 体育祭 |
春分の日 | 春分祭 | 17日 | 神嘗祭 | ||
4月 | 1日 | 新事業祈願祭 | 貯金祭 | ||
29日 | 昭和の日祭 | 11月 | 3日 | 文化の日祭 | |
5月 | 3日 | 憲法記念祭 | 23日 | 新嘗祭(大祭) | |
5日 | こども祭 | 12月 | 23日 | 天長節(中祭) | |
6月 | 30日 | 大祓式(夏越) | 31日 | 大祓式(年越) |
[編集] 参詣
- 東海道沿線にあり、江戸市中と同市中外の境界線上に鎮座していることから、江戸から出府する旅人にとっては道中無事の祈請。入府する旅人にとっては道中無事の報賽といった祈願から江戸時代に入って参詣者が増え、隣接には、増上寺もあり、また、大名による参詣が増えてくる。さらに、お蔭参りといわれる伊勢神宮への信仰は江戸時代に数多く見受けられる。しかし、伊勢神宮への参詣は、高額な旅費と長期間の旅程を要するものであり、容易に行うことは難しかった。そのため、江戸市中に鎮座する当神社は、伊勢神宮の御祭神を祀ることもあって、伊勢信仰の昂揚から参詣者が増えていったと考えられる。参詣者が増えれば、参詣者を当て込んで参道には数々の店が出店してくる。参道には茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻、軽業、剣術、富籤興行、岡場所・陰間など風俗、芝居など見世物小屋も出来、賑わいをみせる。芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び、名物となっていった。そして、江戸で出版された娯楽絵本の版元である地本問屋として名を馳せた和泉屋は天明頃(1781~1789)には当神社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなった。
[編集] 授与品
- 千木筥(ちぎばこ)―女性の衣服が増えるといった縁起のもと、当神社のみ授与している。入学祝い・成人祝い・就職祝い・結婚祝い・出産祝い等で贈り物として受ける傾向があり、これは、千木が千着に通じることからくるが、神社建立の際、余材である千木を用いて米櫃を作ったとか、餅を盛った器(餅器)を略して千器とか諸説いわれはある。同千木筥の中には豆が入っており、部屋に吊るしておくと、雷除けになるという。
- 生姜―当神社創建の時代、周辺には、生姜畑が繁茂し、これを神前に供え、その撤下を食すと風邪に罹りにくくなるとの評判が生じ、爾来、祭礼期間中、生姜を授与しているところから、当神社の祭礼を別名:生姜祭りとも称した。
[編集] 氏子
現氏子内の町会を以て明示。
- 新橋露月町町会(現新橋4丁目と新橋5丁目そして東新橋2丁目の各一部)
- 新橋六丁目東町会(新橋5丁目と新橋6丁目そして東新橋2丁目の各一部)
- 新橋五・六丁目町会(新橋5丁目と新橋6丁目の各一部)
- 新橋七丁目町会(新橋6丁目と東新橋2丁目の各一部)
- 浜松町一丁目町会(浜松町1丁目の一部)
- 芝浜町会(浜松町1丁目と芝大門1丁目の各一部)
- 浜三町会(浜松町2丁目と芝大門2丁目の各一部)
- 芝浜四町会(浜松町2丁目と芝大門2丁目の各一部)
- 海岸一丁目町会(海岸1丁目)
- 芝大門一丁目北親会(芝大門1丁目の一部)
- 芝大門一丁目宮本町会(芝大門1丁目の一部)
- 芝大門二丁目中一町会(旧中門前一丁目。現芝大門2丁目の一部)
- 芝大門中二町会(旧中門前二丁目。現芝大門2丁目の一部)
- 中三三治会(旧中門前三丁目。現芝大門2丁目の一部)
- 片門前町会(芝大門2丁目と芝公園2丁目の各一部)
- 芝公園二丁目町会(芝公園2丁目の一部)
- 芝金杉町会(旧芝金杉町会・金三親和会・金四親生自治会・金杉川口町・金浜親睦会。現芝1丁目と芝2丁目の各一部)
- 芝新堀町会(芝2丁目と芝3丁目の各一部)
- 芝西応寺町会(芝2丁目の一部)
- 北四国町会の一部(旧三田四国東部町。現芝3丁目の一部)
- 芝三丁目松本町会(芝3丁目の一部)芝松本町
- 新門前睦会(旧芝新門前町。現三田1丁目の一部)
- 東麻布二丁目北新睦会(旧麻布北新門前町。現東麻布2丁目の一部)
- 東麻布三丁目町会(旧新網一丁目。現東麻布3丁目と麻布十番1丁目の各一部)
- 新二会の一部(旧新網二丁目。現麻布十番1丁目の一部)