美ち奴
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美ち奴(みちやっこ、本名:久保染子 1917年(大正6年)6月8日 - 1996年(平成8年)5月29日)は昭和時代に活躍した芸者歌手。
[編集] 来歴
美ち奴こと、久保染子は北海道浜頓別に生まれた。(通説となっている樺太出身は誤り。)旅回りの役者の父親の影響を受け、幼い頃から芸事に興味を持ち、三味線で身を立てたいと思うようになる。
昭和6年、浅草で芸者置屋「美知濃家」を営んでいた親戚を頼って、当初は三味線の修行のために上京した。翌年、親戚が置屋の経営に行き詰まり15歳の染子は「美ち奴」として芸者になる。いつしか浅草の人気芸者となっていた美ち奴は、昭和8年、松竹映画「東京音頭」のトーキー部分の撮影に浅草の芸妓衆のひとりとして参加。その甲高い唄声が評判を呼び、当時流行の鶯歌手(芸者出身の歌手)を探していたニットーレコードからスカウトされ、昭和9年「さくらおけさ」でレコード歌手としてのデビューを飾る。
ニットー専属時代は、まだ無名であった作曲家・服部良一の作品を数多く歌い、服部は美ち奴の紹介によって、昭和10年、万里子夫人と結婚することとなった。ニットーにおけるはヒットは、後に楠木繁夫として活躍した黒田進と共演しデュエットした「ああ満州」をのぞけば、ヒットがなかったものの、毎月のように新譜を出す美ち奴の歌声は、地道に評判となっていった。新興レコード会社として古賀政男を迎えてヒットを出していたテイチクレコードは、市丸や小唄勝太郎、新橋喜代三の対抗馬として、美ち奴に白羽の矢を立ててスカウトし移籍の契約をした。
昭和10年秋、「ほんに貴方は罪な方」でテイチクから再デビューした。翌年には、映画俳優・杉狂児と歌った「細君三日天下」がヒット。その名を知られ始めると、レコードレーベルにも「浅草 美ち奴」から「美ち奴」のみの表記となる。つまり、浅草と名乗らなくても、美ち奴といえば彼女であることを示すという知名度の高さを表すことであった。
昭和12年サトウハチロー作詩、古賀政男の作曲による日活映画「うちの女房にゃ髭がある」がヒット映画になる。この主題歌「あゝそれなのに」は、発売されるや40万枚を売り上げる大ヒットとなり、映画と同名の主題歌とともに、「歌手・美ち奴」の人気を不動のものとした。爆発的な大ヒットとなった「あゝそれなのに」は、美ち奴にとっての代表曲となり、戦後まで長く知られた。その後も「そんなの嫌い」「道行シャンソン」などのヒットを続けるが、同年「盧溝橋事件」の勃発により日中戦争が始まり、コミカルな「あゝそれなのに」は不謹慎とされ発売禁止となった。しかし、ほどなく美ち奴が歌った「軍国の母」は、戦時歌謡における大ヒットの第一号となった。昭和13年にも大陸ブームに乗った「霧の四馬路」をヒットさせ、ブロマイドの売り上げも上位を誇る人気歌手となっていくのである。
デビュー当初から、テイチクが積極的に提携していた日活映画に出演しており、「花見音頭」、「ジャズ忠臣蔵」などに特別出演するうちに、映画監督のマキノ正博と懇意になり、マキノが監督した「弥次喜多道中記」「清水港」「続・清水港」などに旅芸人の座長や鳥追いの役などで出演。以降も、昭和17年「歌う狸御殿」、昭和25年「蛇姫道中」など、戦前から戦後にかけて、多数の日活・大映作品に登場している。レコード歌手としても、「吉良の仁吉」「街道石松ぶし」「次郎長ぶし」「シャンラン節」と戦時中でも大ヒットを連発し、人気の絶頂期を誇った。
戦時中は、楠木繁夫とのコンビで中国大陸に慰問にも赴き、最前線のクリークに身を潜める兵士を、涙ながらに無線電話で慰問したという。昭和18年、北海道から両親をわざわざ呼び寄せて浅草に住まわせたが、昭和20年の東京大空襲によって亡くしてしまう。
当時、美ち奴は、浅草で人気を博していた女剣劇役者・中野弘子の芸に惚れ込み、中野とのコンビで数々の舞台を勤め、その活動の拠点を京都に移していた。恋仲であった楠木繁夫が歌手・三原純子と結婚したり、両親を一度に失ったという悲しみを振り払うように、美ち奴は中野弘子とともに慰問や全国興行に専念した。
戦後の一時期はあまりヒットが少なく、引退したかとも思われていたが、昭和25年の朝鮮動乱による特需景気によってお座敷ソングブームが起こると、九州の民謡としてヒットしていた「炭坑節」が各社の競作で発売され、美ち奴が歌ったテイチク盤のみが「三池炭鉱の上に出た」と歌うことが許され、戦後初の大ヒットとなった。同じくテイチクの新人歌手・真木不二夫との恋仲が報道され、美ち奴は妻子ある真木と同棲を始めるようになったが、真木の度重なる浮気によって、ストレスを感じたためか、自律神経失調症を患い、昭和32年には6年間の同棲生活に終止符を打った。生活のため、43歳で「駒奴」と源氏名を改めて、再びお座敷に出るものの、往年のスターとしての名声だけでは、年齢のこともあり、ひいきの客も徐々に離れていった。
浅草のアパートで、ひとり自律神経失調症の再発と闘病する美ち奴の不遇を知った中野弘子は、恩義ある彼女を全面的にサポート。早速、隣室に引っ越して、美ち奴の再起を支えた。昭和40年代のなつメロブームに乗って、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」でその衰えぬ美声を披露。テイチクでも往年のヒット曲をステレオで再録音している。病気の再発は繰り返していたため、昭和53年頃を最期にテレビ出演もできなくなり、都内の病院を転々としては、療養の日々を続けた。昭和58年、東京都江東区の特別養護老人ホーム「むつみ園」に入所。その頃、NHKラジオ「昭和歌謡大全集」に出演したのが、美ち奴としての最期の放送となった。後に同じ老人ホームに中野弘子も入所し、所内の演芸会では、変わらぬ美声を披露したり、中野と寸劇を演じたりと、身寄りが無いながらも、穏やかな晩年を過ごした。平成8年5月29日、大腸がんのため、親友の中野弘子に看取られながら、78年の生涯に幕を下ろした。中野弘子は、美ち奴の49日を執り行った後、後を追うかのように亡くなっている。
映画監督としても知られるコメディアンのビートたけしの師匠である深見千三郎は、美ち奴の実弟である。