三原純子
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三原 純子(みはら じゅんこ、1920年8月6日 - 1959年10月4日)は、昭和期の流行歌の歌手。本名は黒田粋子。現在も活躍するタレントの三原じゅん子とは別人。
[編集] 経歴
1920年(大正9年)、岐阜県飛騨高山の白川郷生まれ。女学校時代から演芸会では美声を知られていたが、卒業後名古屋で音楽の基礎を学ぶ。上京後、作曲家・長谷川堅二に声楽を師事し、長谷川の紹介で、1939年(昭和14年)、タイヘイレコードの専属歌手となる。松竹映画の俳優・三原純にあやかって、芸名を三原純子とし、「帰ろう帰ろう漢口へ」でデビュー。立花ひろしと歌った「さらば港よ」をはじめ、「出島の雨」、「乙女よ朗らかに」、「さらば東京」など、40曲あまりをレコーディングするが、1942年(昭和17年)に、タイヘイがキングに買収され移籍。「点数の歌」を発売したのみで、同年、コロムビアに移籍。コロムビアにおけるデビュー曲「南から南から」が大ヒットとなり、歌手として認められるようになる。
太平洋戦争開戦により、世間の目が南方に向けられていった中でヒットした「南から南から」で注目を浴びた三原純子は、大映映画「歌う狸御殿」に出演。実際にはコロムビアにおける初レコーディングであった主題歌「月の小島」で、デュエットした楠木繁夫と恋仲になり、1943年(昭和18年)12月8日、「南から南から」の作曲者・吉田信夫妻の媒酌によって結婚した。戦時中は主に戦時歌謡のレコーディングが多く、「大空に祈る」「花笠おどり」「突撃喇叭鳴り渡る」「固い約束」などのレコードを発売する一方で、国内の軍需工場などを夫婦揃って慰問に訪れた。1945年(昭和20年)、空襲で東京の家を焼失したため、夫妻は三原の故郷である飛騨高山に疎開。終戦後も、ステージや国鉄職員の慰問などで各地を巡業するが、戦時中から流行していたヒロポンという覚せい剤のため、徐々に二人の身体は蝕まれていったのである。歌詞を改めた「南から南から」をはじめ、夫妻揃って出演した「春爛漫狸御殿」主題歌「夜風のタンゴ」を二人でレコーディングするなど、新譜も出していたが、1949年(昭和24年)には、夫婦でテイチクに移籍。1950年(昭和25年)、三原自身も出演した大映映画「ニッポンGメン 難破崎の血斗」主題歌「しのび泣く雨」が久しぶりの大ヒットとなった。このヒットによって、紅白歌合戦にも出演している。
関係の深かった音楽家から感染した肺結核が徐々に悪化すると、期を同じくして、主人である楠木繁夫は根っからの酒豪であったため、ヒロポン中毒が重なったためか、脳溢血に倒れる。生活のため夫婦揃ってのステージや巡業は1956年(昭和31年)まで続けていたが、結核の悪化が影響し、三原純子は、故郷に転地療養を余儀なくされた。療養中に、楠木繁夫は自殺。その死は、体調を気にした親戚が頃合を見計らって彼女に伝えられたが、最愛の伴侶を失った影響は大きかった。1959年(昭和34年)10月3日、楠木の後を追うかのように、三原純子は38年の短い生涯に幕を下ろしたのである。
1977年(昭和52年)には、三原の故郷・飛騨高山に楠木繁夫と三原純子を偲ぶ比翼塚が建立され、夫妻の良き理解者であった古賀政男は最晩年に病身をおして、この碑を訪れたという。
[編集] 代表曲
- 「海防だより」
- 「南から南から」
- 「真昼の丘」
- 「月の小島」共演:楠木繁夫
- 「大空に祈る」共演:松原操、菊池章子
- 「夜風のタンゴ」共演:楠木繁夫
- 「しのび泣く雨」
- 「妻も恋す」