社会的少数者
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社会的少数者(しゃかいてきしょうすうしゃ)又は社会的少数集団(しゃかいてきしょうすうしゅうだん)、社会的少数派(しゃかいてきしょうすうは)とは、その社会の権力関係において、その属性が少数派に位置する者の立場やその集団を指す。多くは偏見や差別の対象になる。但し、権力関係は無視して人口割合を厳密に考慮して、グループ自体が少数派であっても、その支持層が多数派である場合などを社会的少数者と認めない考え方もある。欧米のマイノリティの考え方の直輸入で、直訳すると少数派となるが、これでは原語の意味が伝わらないので社会的少数者と訳された。しかし、この訳も冗長で不自然なため、原語がそのまま使われることも多い。
日本語での類義語は「社会的弱者」であるが、社会的少数者という訳自体が社会的弱者と少数派の合成に近い。対義語はマジョリティであり、これは多数派、あるいは強い立場を意味し、まとめて世論を形成しやすい群というふうにも言える。なお、女権論では具体的な数と関係なく、差別などの理由で社会的に地位が弱い・低いという意味で、女性がマイノリィティーであると主張される。
また、社会的少数派などの語が軽い意味で趣味が多数に属さない者・時流に沿わない者を指す場合もある。
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[編集] 少数民族
詳細は少数民族を参照
近年の米国など、多民族を前提とした社会では、少数民族であることが、必ずしも不利に働くとは限らない。南部を中心とし、黒人差別が今なお根強いとは言え、WASPでない限り出世が不可能ということはない。
しかし、人口の99%を日本人が占める日本では、少数民族であること、もしくは外国人であることが、本人にとって極めて不利な状況を招くことがある。
アパルトヘイト体制下の南アフリカ共和国では、少数派である白人が、多数派である黒人を支配するという、特異な現象を呈していた。
[編集] 性的少数者
詳細は性的少数者を参照
人口の90%以上を占める異性愛者は、男は女を、女は男を好きで当たり前と考えている。家族制度は異性愛を前提として構成されているし、性的少数派であることが発覚した場合には、偏見・差別の域にとどまらず、憎悪の対象になる可能性もある。強制的異性愛という言葉もある。
[編集] 世界
特に、日本語の社会的弱者という考え方との違いとして挙げられるのは、多民族国家における少数派の文化的団結が強調される点である。アメリカ黒人の、公民権運動の一環として生まれた言葉であり、移民を多く受け入れた欧米でこの認識が急速に広まった。よって、単なる個人の経済的あるいは社会的地位の向上だけではなく、多民族・多人種・多宗教国家における、それぞれの集団の尊厳と地位の平等化が強く意識される。
例として、アメリカではこれまで年末の挨拶として、当り前のように「メリークリスマス」が使われてきたが、近年はこれが政治家だけでなく一般人も含めてポリティカル・コレクトネスの支持者の間では「ハッピーホリデー」に言い換えられている。クリスマスはキリスト教の宗教行事であるため、これを無頓着に使うことはキリスト教、つまり多数派の価値観の押し付けとされる。
フランスやタイでは、少数派のアイデンティティを守るというよりも、みなを同じに扱うという考え方を採っている。つまり、黒人であっても少数民族であっても「その国民であること」を問題とする。即ち、アメリカのように国家における主流派を権威を認めた上で少数派を尊重するというよりも、同じ国民である以上は出身地や宗教といった点が異なっても「同じ国民ならば同じ扱いを受けるべきだ」とする考え方である。こういった考え方を採用する例は、一定の宗教や民族が圧倒的な大多数ではない国に多い。例えば、フランスではカトリックとプロテスタントが同じ程度存在していたり、太古から「フランス人」が存在していたわけではないため、何をフランスの正統な民族とするかの定義が曖昧である。一方で回教徒の女学生が頭部を隠すことを禁止するなど国家によるフランス人の定義の押し付けとの批判もある。多文化主義の観点からはフランスの一元主義に対する批判が存在する。タイの場合は、王室への忠誠心があれば、個人間の差異が特に重要視されないという特殊な事情がある。
[編集] 日本
日本では、少数民族の割合が著しく低く、特に人種的にはほぼ完全に同一といってよい状態がある(但し、海外のメディアでは「日本人の平均的な期待よりも外国人の割合は多い」とする主張もある[1]。よって、「社会的」弱者という言葉そのものに見られるように日本国内の異民族を、日本民族と同等に相対化するという考えそのものが存在しなかった。
当時は世界の先進国のどこでも同化政策は当然と考えられていたため、アイヌ民族などの異民族に対して日本でも同化政策が採用され、その為に北海道では、アイヌ語は殆ど絶滅寸前であった。最近は回復の兆しを見せているが一部では手遅れではないかと懸念されている。(アイヌ、ウィルタ、ニブフなどを参照の事)
沖縄は、独自の文化を持つ琉球民族であるとの主張も存在するが、以前から日本民族の一部とされていた。しかし、本土に移住したものが差別にさらされた例はある。(琉球民族及び琉球語なども参照の事)
また、日本人の社会的弱者集団の代表である部落民の解放政策[要出典]は、同一民族内の差別であったために、対応策が同化であったことなどの理由により、欧米のような異文化の地位的平等を求める公民権運動としては評価されなかった。近年の部落問題の対策として、戸籍の登録の場所を自由化して部落の出身であることを隠すことが出来るようにする、あるいは在日の様な通名の使用を法律的にも認めるなどを行っている[要出典]。このような自らの出生を隠すような行為はマイノリティー論の観点に基づく社会的弱者の救済と対極にある。(部落問題なども参照の事)
また、在日韓国・朝鮮人の場合は、近年まで日本名(つまり日本民族名)に対する改名が国籍習得の条件となっていたために、日本国籍を取ることは朝鮮民族であることを放棄し日本民族になることであると考えられ、日本側から見た場合朝鮮人は移民であり日本の法律・風習に従うのは当然との思いがあり、結果として在日韓国・朝鮮人としての地位向上という考え方が近年まで見られなかった。(在日韓国・朝鮮人、在日外国人なども参照の事)
なお、日本特有の社会的少数者として、いわゆる「おたく」とよばれる層が存在すると言う意見もある。これは1980年代後半に起きた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人:宮崎勤(現在死刑囚)がおたくであり、これを報道したマスコミによって様々な偏見を植えつけられたとの主張が当事者の間で出ていることによる(詳しくは同事件、沙織事件、有害コミック騒動、ゲーム脳、フィギュア萌え族など項目も参照)。但し、現在のおたく市場規模は888億円を超えるといわれており(浜銀総合研究所の調査による)、更に現在のコミックマーケットなどのイベント参加者数を考慮すると決して少数とは言えないとする意見もあるが、その場合も「差別や偏見の対象とされてきた」という考え方に則り、マイノリティーと捉えることもできるであろう。
日本では、マイノリティーへの差別や冷遇は、正しい行為とみなされておらず、すくなくとも露骨な差別の態度は非難の対象となる。しかしながら、いわゆるおたくの男性への冷遇は、むしろ社会正義に則っているとみなす者も若い女性を中心に多く、より深刻な差別を受けるマイノリティーであるとする見方もある。
[編集] 日本で社会的少数者とされる集団
日本の定義が、欧米の定義と一致するものでない。また、社会の変化に応じて変動することもある。
- 同和地区出身者(→部落問題)
- キリスト教徒など日本には信者の少ない宗教の信者、信徒。
- LGBTなど性的少数者
- 障害者
- 在日韓国・朝鮮人、その他の在日外国人、日系人
- ホームレス
- アイヌ(ウタリ)、ウィルタ、ニブヒなど先住民や少数民族
- エイズ、ハンセン病など、感染症患者及び元患者
- おたく、その他一部のサブカルチャー集団(ただし男性のみ。女性のいわゆるおたくはマイノリティーとされないことが多い)
[編集] 問題の差
よって、日本における社会的弱者に対する議論において、文化という要素はこれまで殆ど見られなかった。一方、欧米でのマイノリィティー問題において(文化的)同化(Assimilation)と、社会的な統合(Integration)の問題は非常に活発に議論されている。
フランスなどでは、移民のフランス文化に対する同化を国家政策として奨励しているが、移民社会、特に一部の二世の間では不評である。一方で近年、メキシコ出身のアメリカ人がアメリカの国歌を、スペイン語に改訳して歌ったときは保守派から大きな反発が起こった。また日本語の社会的弱者と違い、単なる貧困に苦しむものがマイノリティとされることはない。この結果としてマイノリティ論に基づく社会政策の典型であるアファーマティブアクションなどには白人の貧困階級が含まれないなどの軋轢を生んでいる。
一方日本では、いまだに厳密な意味で欧米のマイノリティに対応する集団はごく少数であるので、単なる差別問題と捉える場合が多い。エイズや元ハンセン病患者やホームレスの問題など、欧米では特にマイノリィティーと認識されないものが、被差別集団・社会的弱者ということで同義で議論されている。逆に、例えば聾者が欧米の聾者文化論を引用して、「聾は障害でなく文化である」などの主張をすると全く何のことか理解されないことが多い。