瞽女
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瞽女(ごぜ)とは、近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、時には胡弓を弾き唄う、盲目の女性旅芸人のことである。
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[編集] 概要
越後新潟には長岡瞽女と高田瞽女の2派が大きくその組織を形成していた。また山梨県には甲府の横近習町・飯田新町の総数200人を超える大きな組も存在し、長野県では飯田、松本、松代など、岐阜県では高山など、静岡県では駿府、沼津、三島など、愛知県、千葉県、埼玉県、群馬県、福岡県などでは多数の小さな組合があった。また江戸中期・後期の瀬戸内地方にいた瞽女の多くは広島藩、長州藩あるいは四国の多くの藩から視覚障害者のための「扶持」を受けた。
生活手段として三味線を片手に各地を巡り、『葛の葉子別れ』等の説話やその土地の出来事風俗などを弾き語りしたり、独特の節回しを持つ「瞽女唄(ごぜうた)」にして唄い語るもので、まだテレビやラジオが普及していなかった時代、新潟県や東北地方など、主に豪雪地帯の村落などで娯楽の一端を担っていた伝統芸能の一つである。
明治時代から昭和初期には多くの瞽女が新潟県を中心に活躍していたが、第二次大戦後、ほとんどの瞽女は廃業し、その数は急速に減っていった。小林ハルはその中で最後まで活躍した長岡瞽女であった。
後年、小林ハルは唯一の長岡瞽女唄伝承者として、その継承と保存に尽力してきた。またハルの故郷である三条市には保存会も存在し、後世に日本の伝統芸能の一つである「長岡瞽女唄」を残すべく、精力的に活動を続けている。
旧高田市(現上越市)を中心としてその活動を行ってきたのが高田瞽女であった。高田瞽女は、親方(師匠)が家を構え、弟子を養女にして自分の家で養っていった。親方はヤモチ(屋持)と呼ばれ、明治に末に17軒、昭和の初期に15軒となり、これらの親方が座を作り、いちばん修業年数の多い親方が「座元」となり、高田瞽女の仲間を統率していった。
昭和30年代、戦後の高度成長を続ける日本の中で、瞽女は衰退していった。そんな中、杉本キクエは、杉本シズ、難波コトミの2人の弟子を抱えて、それでも昔の唄を聞いてやろうという村々を頼りに細々と旅を続けていった。キクエは、若い頃から下の者の面倒をよくみて慕われ、組の親方達にも信頼される聡明なしっかりした人柄で、たくさんの瞽女唄を記憶している立派な瞽女であった。1970年(昭和45年)、杉本キクエは、国の重要無形文化財に指定される。
現在は高田系瞽女では小竹勇生山、小竹栄子、月岡祐紀子、長岡系瞽女では竹下玲子、萱森直子らがその芸を継承し、後世に伝えるべく活動を行っている。
男性盲人には三都を中心に当道座という大きな自治的組織があり、検校、勾当、座頭等の官位を授与していた。検校には優れた音楽家として活躍した人が多いほか、鍼灸や按摩も独占職種として幕府に公認されていた。学者や棋士として名を馳せた人もいる。また当道座以外にも盲僧座があった。
[編集] 関連作品
- 映画 『はなれ瞽女おりん』 1977年
- 田名瀬咲子 『ごぜ姉さ』、少年写真新聞社、2003年
- 絵本。
[編集] 関連文献・解題
- 佐久間惇一 『瞽女の民俗』、岩崎美術社<民俗民芸叢書>、1983年
- 主に中越と下越の瞽女の研究。
- 鈴木昭英 『瞽女 - 信仰と芸能』、高志書院、1996年
- 民俗学による越後瞽女の研究。
- 宮成照子編 『瞽女の記憶』、桂書房、1998年
- 桐生清次編著 『最後の瞽女 小林ハル』、文芸社、2000年
- 聞き書きによる小林ハルの伝記。三味線、胡弓の名手として知られた佐藤千代の生涯を綴っている。
- ジェラルド・グローマー 『瞽女と瞽女唄の研究』(研究篇・史料篇)、名古屋大学出版会、2007年
- 研究篇では文献・聞き書き資料により全国の瞽女の歴史を追い、瞽女唄の旋律の分析、歌詞の形成過程などを考察し、史料篇では中世~近代、年表の形で膨大な瞽女関係の史料を年表の形で掲載。