瓜生山城
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瓜生山城(うりゅうやまじょう)は、現在の京都市左京区北白川清沢口町(当時は山城国愛宕郡)にある瓜生山(標高301m)に築かれた戦国時代の山城である。この山の所在地より北白川城(きたしらかわじょう)、山の別名より勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうさんじょう)とも呼ばれている。
瓜生山は南北朝時代の延文6年/正平(1361年)以来、勝軍地蔵堂が設置(江戸時代の宝暦12年(1762年)に麓の現在地(北白川瓜生山町)に移転)されて信仰の対象とされていた。
ところが、大永7年(1527年)、管領細川高国が細川晴元に対抗するために山頂から東の地蔵谷にかけて城を築城した。これが瓜生山城の創始とされる。だが、享禄4年6月6日(1531年7月19日)に高国の戦死に先駆けて落城した。
続いて、天文16年3月30日(1547年4月20日)、室町幕府将軍足利義晴が管領となっていた細川晴元を討つために細川氏綱・近衛稙家らと結んでここに籠城するものの、7月12日(7月28日)に京都を制圧していた晴元の攻撃を受けて7日後の天文16年7月19日(1547年8月4日)に落城し、義晴・義藤親子は近江国に脱出した。
更に永禄4年2月24日(1561年3月9日)には、三好氏家臣松永久秀がこの城にいた六角氏家臣永原重澄を攻め滅ぼしている。
その後、織田信長の比叡山焼討では、明智光秀がこの城に入って延暦寺を牽制するが、信長の京都支配が確立すると、その軍事的意義を失って廃城になったと見られている。
[編集] 参考文献
- 『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』(平凡社、1979年) ISBN 4582490271