源兼資
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源 兼資(みなもと の かねすけ、天徳4年(960年) - 長保4年8月6日(1002年9月15日))は、平安時代中期の官人。文徳源氏能有流。参議源惟正の三男。母は藤原国章女。兄弟は遠古・兼宜・兼業ら。室は藤原為光五女。子に源成信室・藤原隆家室らがいた。
近江掾、治部輔、左馬権頭、薩摩守、美濃守、伊予守などを歴任した。薩摩では治績により一階を叙され、伊予においては任終の年に諸郡の吏が上洛して兼資の重任を請願するほどの能吏だった。藤原行成は『権記』で「仙骨あり」と、兼資を称えている。長保4年(1002年)8月6日、43歳で卒去した。最終官位は正四位下前左馬権頭だった。
なお、彼の妻は太政大臣藤原為光の五女だが、兼資の没後は藤原妍子(三条天皇中宮)の女房となり「五の御方」と呼ばれた。