源兼綱
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源兼綱(みなもとのかねつな、生年不詳 - 1180年6月20日(治承4年5月26日))は、平安時代末期の武将。源仲政の次男頼行の子として生まれるが、父が若くして自害したため、伯父頼政の養子となる。宗頼、政光、仲時、政綱、光賢、宜秋門院丹後らの兄弟。子に源兼隆(鳥羽冠者)がある。官職は従五位下・中宮少進・左衛門尉。検非違使を務め、通称を源大夫判官といった。
治承4年(1180年)5月、養父頼政は以仁王を奉じて打倒平家の兵を挙げる。当初平家方は、乱の首謀者が頼政であることを把握しておらず、以仁王追捕のために招集した検非違使の中に兼綱を含めるという愚を犯している。兼綱は頼政にこの動きを急報。これを受けた頼政は至急以仁王を園城寺(滋賀県大津市)に移し、事件は一気に急展開を見ることになる。
宇治平等院の戦いでは衆寡敵せず敗れ、兼綱は頼政を守って宇治平等院(京都府宇治市)にて壮絶な戦死を遂げた。
松平智慧伊豆と謳われた松平信綱などを出した大河内氏は、三河国額田郡大河内(愛知県岡崎市大平町字大河内、東名高速の岡崎インター近く)へ落ちたこの兼綱の末裔とされる。