武市瑞山
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武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、日本の武士・土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称は半平太であり、武市半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛、諱は小楯(こたて)。瑞山は号。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は、吹山を雅号とした。位階は贈正四位(明治24年・1891年)。
父は土佐藩郷士の武市正恒、母は大井氏の娘。瑞山はその長男。妻は土佐藩郷士島村氏の娘の富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。
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[編集] 経歴
土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家はもともと土地の豪農であったが瑞山より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)郷士に取り立てられた家である。文政5年(1822年)には白札に昇格した。「白札」とは身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといったあつかいである。
嘉永2年(1849年)城下の新町で剣術道場を開く。なお、この道場の門下には中岡慎太郎、岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となる。 安政3年(1856年)江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。江戸では桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流する。
文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成、2年後には192名が連判に参加。
文久2年(1862年)には、藩主山内豊範への進言を退けた土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令(実行犯は、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助)。暗殺後、東洋派重臣を藩人事刷新のクーデターにより、要職から追放し、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握。藩主山内豊範を奉じて京に進出する。上洛後は藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。これらの動きが功を奏し、朝廷が攘夷の朝議を決した際、一橋慶喜がこれをくつがえそうと入京を画策したが、武市は、裏工作により、これを一時妨害することに成功した。京では数々の佐幕派暗殺に関与し、天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させた。(武市の下で動いた人物では、岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が有名)。同年秋には朝廷から幕府に対して攘夷催促する勅使の江戸東下に、副使姉小路公知の雑掌となり、柳川左門という変名で江戸に随行した。文久3年(1863年)1月、白札から上士格留守居組に出世。さらに3月には京都留守居加役となる。だが、これは過激な土佐勤王党を懐柔するための、山内容堂の策謀であったとも考えられる。
文久3年8月18日(1863年9月30日)に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。土佐藩においても、公武合体派の前藩主で老公と呼ばれた山内容堂の影響力が再び増すこととなる。瑞山は同年4月に、薩長和解調停案の決裁を山内容堂に仰ぐために帰国していたが、6月、捕縛されていた側近の平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太が青蓮院宮の令旨を盾に藩政改革を断行しようとしたことを理由に切腹を命じられ、自身も政変後まもない9月に逮捕、投獄。他の勤王党同志も次々と捕縛される。一年半の獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けたという。
だが、後に捕縛された岡田以蔵の自白により瑞山の罪状はおおむね決定したが(岡田以蔵が自白する前に武市は毒死で暗殺しようとしたが失敗。これに以蔵が怒り暴露した)、それでも東洋暗殺を否定し、老公・容堂に慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。享年36。未だ誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わる。武市家の家禄は召し上げとなった。
辞世の歌は、
- ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり
維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。
[編集] 人物
言説さわやかで人格も高潔にして誠実、武士道仁義を重んじていた。 見た目は色白・美形・堂々たる体格(180cm前後)であったと伝えられ、行友李風の戯曲『月形半平太』の題名役(主人公)のモデルともなった。ただし劇中の半平太は女性を魅了する色男として描かれているが、瑞山は1歳年下の妻、富子とは睦まじい暮らしぶりであったとされる。
そんな武市の人格から、実際にこんな逸話が語り継がれているらしい。
武市が江戸剣術修行で鏡心明智流の桃井道場へ通っていた頃に塾生の中に女や酒に走ってしまう者がいた。武市は道場主の桃井に訴えて自ら模範を示し、至誠を持って塾生らを説いて回った。その結果、乱れた風紀は正され、塾生達の技量も上達し、桃井は武市を高く評価しその尽力に感謝したといわれている。
また別の逸話であるが、2人の間に子が授からないことを心配した吉村が、富子に七去を説いて実家へ帰らせ、その留守に若い娘を女中として送り込んだが、武市は次々と送り込まれた娘たちに手をつけず、吉村の計略に気づいて、吉村を叱りつけたという。また、山内容堂が土佐勤王党の弾圧への動きを見せ始めていた時、武市は薩長和解調停案に関連して帰国をすることとなった。彼の身を案じた盟友の久坂玄瑞は、しきりに長州への亡命を勧めたと言われるが、武市はその厚意に感謝の意を述べつつも、君臣の義理などを理由にこれを断ったと言う。義理と恩を何よりも大事な物と考え、武士道仁義を徹底して貫き通す姿勢は彼の特筆すべき美点であると共に、その時代においては決定的な弱点ともなり、自らの死を速める結果にもなった。剣の腕も一流で、教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていた。芸術方面では、南画の腕もあり、獄中自画像や美人画など多くの優れた作品を残している。
武市の人格を評するには『一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった』や『人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材』といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことがうかがえる。
また武市が投獄されて死ぬまでの1年9ヶ月、富子は毎日3食を欠かさず牢に差し入れ、また夫を慰めるため書籍や自作の押絵なども共に差し入れていたという。瑞山の切腹の際に身につけたのも、富子が縫いあげて届けた死装束であった。富子は大正6年(1917年)まで存命し、墓所は高知県高知市で武市の傍にある。また、全国で唯一、銅像の創り直しが行われた人物でもある。
維新後、木戸孝允は旧土佐藩主山内容堂との酒の席で酔い「なぜ武市を斬った?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったといわれる。
養子息子の名前は半太。医者となり、梼原村で開業した。