檜山郡 (出羽国)
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檜山郡(ひやまぐん)は出羽国にかつて存在した郡である。遅くとも天正19年(1591年)には成立していたことが「秋田家文書」に所蔵されている羽柴秀吉から湊安藤太郎あての知行宛行状により確認できるが成立年は不明。「秋田湊氏文書」、「南部世譜」、「新羅之記録」(松前氏の家譜)等には、永享4年(1432年)に檜山城の修築の記事が見え、康正2年(1456年)頃には津軽十三湊から南部氏に追われて蝦夷島に逃れていた安東氏下国家の政季と嫡子忠季が河北地方の葛西秀清を滅ぼし一帯を領有し、明応4年(1495年)檜山城の築城を完成させたことが記載されていることから、15世紀半ば以前は河北郡と呼ばれていたと思われる当地方に15世紀頃に成立したと見られている。この時点での河北郡=檜山郡の領域は、現在の南秋田郡である馬場目川以北で現青森県の深浦町までを含んでいたと推定されている[1]。
戦国時代後期に入ると秋田郡を領する安東氏の一族である湊上国家に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、檜山下国家の安東愛季が湊家をも継承して安東家を統合した。これにより秋田郡と檜山郡は同一の大名の領国となり、更に陸奥国比内郡の浅利氏が安東氏に滅ぼされ比内郡が秋田郡に併合されたことにより出羽国の北部郡域が確定した。
関ヶ原合戦後、安東氏は常陸国宍戸に移され、入れ替わりに常陸から佐竹氏が入部すると、檜山城には佐竹家臣の小場義成、次いで多賀谷氏が入り、一国一城令によって檜山城が破却された後も館構えに変わったものの所預として明治維新まで続いた。この間、佐竹氏により檜山郡は山本郡と改称され、檜山郡は消滅した。
[編集] 脚注
- ^ 村井ほか 2002
[編集] 参考文献
- 海保嶺夫 『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691
- 塩谷順耳ほか 『新版県史 秋田県の歴史』 山川出版社、2001年、ISBN 4634320509
- 村井章介・斉藤利男・小口雅史編 『北の環日本海世界』 山川出版社、2002年、ISBN 4634605309