橋田壽賀子
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橋田 壽賀子 | |
プロフィール | |
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誕生日 | 1925年5月10日(83歳) |
出身地 | 日本 大阪府堺市 ( 大韓民国・ソウル生まれ) |
主な作品 | |
テレビドラマ | 『愛と死をみつめて』 『おんな太閤記』 『おしん』 『春日局』 『渡る世間は鬼ばかり』など |
受賞 | |
NHK放送文化大賞(1979年) 菊池寛賞(1984年) モンブラン国際文化大賞(2000年)など |
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その他 | |
「橋田賞」創設者 紫綬褒章(1988年)、 勲三等瑞玉章(2004年)受章 |
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橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年5月10日 - )は、日本の脚本家、劇作家である。京城(けいじょう、現・ソウル)生まれ、大阪府堺市出身。
目次 |
[編集] 来歴・人物
- 大阪府立泉陽高等学校(後輩に女優の沢口靖子がいる)、日本女子大学文学部国文学科卒業、早稲田大学文学部芸術科中退。
- 大学を2つも通ったのは、当時の時代背景として女性の就業率はとても低く、そのうえ学校を卒業したら結婚させられてしまう、というのがあり、どうしても脚本家になりたかった橋田は松竹に入社が決まるまでの間、大学に通わざるを得なかったという事情がある。
- 1949年、松竹入社、脚本部所属。
- 1959年、独立作家となる。
- 1966年、岩崎嘉一(当時TBSプロデューサー)と結婚。1989年9月、死別。
- 1992年、橋田文化財団設立、理事に就任。
- 1993年、橋田賞創設。
- 現在は熱海在住。
- 愛犬は、さくらと言う名の柴犬で、生活ほっとモーニングの「この人にトキメキっ」の橋田が取り上げられた回、熱海の橋田邸紹介のVTRで飼い主の橋田によって紹介されている。
[編集] 主な作品
[編集] ドラマ
- 愛と死をみつめて(1964年:TBS・東芝日曜劇場)
- となりの芝生(1976年:NHK銀河テレビ小説)
- となりと私(1977年:NHK銀河テレビ小説)
- 夫婦(1978年:NHKドラマ人間模様)
- 幸せのとなり(1979年:NHK銀河テレビ小説)
- 女たちの忠臣蔵(1979年:TBS)
- おんな太閤記(1981年:NHK大河ドラマ)
- おしん(1983年-1984年:NHK朝の連続テレビ小説)
- 大家族(1984年:TBS)
- 男が家を出るとき(1985年:NHK銀河テレビ小説)
- いのち(1986年:NHK大河ドラマ)
- お入学(1987年:NHK銀河テレビ小説)
- おんなは一生懸命(1987年:TBS)
- 結婚する手続き(1988年:NHK土曜ドラマ)
- 春日局(1989年:NHK大河ドラマ)
- 渡る世間は鬼ばかりシリーズ(1990年~:TBS)
- TBS創立40周年記念・橋田壽賀子スペシャル「源氏物語」(1991年12月27日、1992年1月3日:TBS)
- おんなは度胸(1992年:NHK朝の連続テレビ小説)
- 春よ、来い(1994年~1995年:NHK朝の連続テレビ小説)
- 番茶も出花(1997年:TBS)
- 百年の物語 第1夜「大正編・愛と憎しみの嵐」(2000年8月28日:TBS)
- ハルとナツ 届かなかった手紙(2005年10月2日~6日:NHK)
- 涙そうそう この愛に生きて(2005年10月9日:TBS)
- 橋田壽賀子スペシャル 夫婦(2006年2月4日:テレビ朝日)
[編集] 映画
[編集] 著書
- 橋田壽賀子と素敵な24人(1989年:家の光協会)
- 渡る世間に鬼千匹(1997年:PHP研究所)
- 渡る世間は… 橋田壽賀子・石井ふく子対談エッセイ(2001年:ワニマガジン)
- ひとりが、いちばん! 頼らず、期待せず、ワガママに(2003年:大和書房)
[編集] 受賞・受章
- NHK放送文化賞(1979年)
- 松尾芸能大賞(1982年)
- 菊池寛賞(1984年)
- 紫綬褒章(1988年)
- 東京都文化賞(1989年)
- 毎日芸術賞特別賞(1994年)
- モンブラン国際文化賞(2000年)
- 勲三等瑞宝章(2004年)
[編集] ドラマの特徴
大衆に受け入れられてこそ価値のある作品であるという信念のもと、数多くのヒットを飛ばした。おしん(1983年~1984年:NHK)、春日局(1989年:NHK)、渡る世間は鬼ばかり(1990年~:TBS)など、後世に残る作品を数多く残している。
[編集] 構成
女性脚本家らしく、ドラマの中の女性の視点から物語が展開されている。
『渡る世間は鬼ばかり』等の現代劇では、10代~20代の男性出演者は黒髪が多い事(茶髪は不良の設定)、恋人同士でさえお互いにいつまでも敬語を使って会話する事、恋人関係から結婚に至る過程が堅過ぎる事(できちゃった結婚は絶対にあり得ない)等、現代に即さない面も指摘される。結婚や生活に関して旧い価値観を貫いており、若者と年配者、嫁姑の対立という内容が必ずと言っていい程ある。これはストーリーに起伏を持たせるためである。
[編集] セリフ
妥協や甘えを一切許さない作風で、脚本執筆の際は役者の台詞が長い事が有名である。主役級の泉ピン子は、「自分の台詞が台本1ページもある」と語った。加えて助詞(いわゆる「てにをは」)一字の発音違いも許されず、アドリブも一切禁止と言われている。これは松竹時代、担当したドラマの脚本で作成した台詞を俳優達が一切使わなかった事が原因ではないかと思われる。
担当脚本の作品では、もはや死語となった様な上品な台詞が多く発せられる。主なものに「作る」というところを必ず「拵える(こしらえる)」と言わせる、「味噌汁」を「御御御付(おみおつけ)」と言い換える等がある。
「主婦が家事をしながらでも、テレビ画面を見ることなく台詞のみで話の筋が分かるように配慮している」とインタビューなどで述べている。このことは一方で脚本を台詞に依存する割合を高め説明的にすることにもなり、小倉千加子などから批判的意見もある。
[編集] 橋田ファミリー
橋田脚本のドラマには、泉ピン子などいわゆる「橋田ファミリー」と呼ばれる役者が決まって出演している。ベテランの役者が多く、橋田ドラマで鍛えられているため台詞や演技力は高いが、一方で橋田ドラマ以外では余り目にする事が無い役者も多い。
なお、橋田脚本のドラマに美男美女を登場させる場合、ジャニーズ事務所、石原プロモーション、オスカープロモーションからの出演が目立つことも橋田ドラマの特徴である。
[編集] テレビ出演
1990年代後半、その独特の風貌(加藤浩次からミニラと呼ばれた)・キャラクター・物言いが女子高校生などにウケ、改編期に橋田出演の旅番組が制作されたり、森田一義アワー笑っていいとも!(1998-2001年)などレギュラー番組を多数抱えた、スガコブームと呼ばれた時期があった。しかし、人の話を突然遮って喋り始めたりなどバラエティ番組に不向きな性格だったことが次第にあきらかになり、ブームは去った。橋田本人は話好き・目立ちたがり屋と公言しており、現在も声がかかれば積極的に出演していることから、メディアへの露出は、他の著名脚本家と比べると群を抜いて多い。 特に渡る世間は鬼ばかりを制作しているTBSへは(自身の番組宣伝も兼ね)頻繁に出演している。 また、公私共に親しい泉ピン子とセット出演も目立つ。
[編集] 地元・熱海市とのつながり
晩年の岩崎嘉一と熱海自然郷にて暮らしており、現在でも東京~熱海間を往復している。熱海自然郷は急峻な玄岳の頂上付近にあり、自動車を自ら運転して往復している。
来宮神社の氏子としても知られており、当地熱海市上多賀・同西山町の賛同する付近の民芸品店等には、橋田ドラマの掲示が数多く掲げられている。自宅は相模湾沿いから比較的近く、地元から手伝いに訪問する同年代のファンも多い。池畑慎之介(ピーター)の別荘も近くにある。