極東共和国
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- 極東共和国
- Дальневосто́чная Респу́блика
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← 1920年 - 1922年 → 国旗 国章 - 国歌 : インターナショナル
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公用語 ロシア語 首都 ヴェルフネウディンスク
チタ- 首班
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- アレクサンドル・クラスノシチョーコフ - 変遷
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成立 1920年4月6日 崩壊 1922年11月15日
通貨 ルーブル
極東共和国(きょくとうきょうわこく;ロシア語:Дальневосточная Республикаダリニヴァストーチュナヤ・レスプーブリカ;略称:ДВРデーヴェーエール;英語:Far East Republic)は、1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト政権が日本との緩衝国としてロシア極東地域に建国し、1922年11月19日まで存在した短命なロシアの傀儡国家。
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[編集] 地域
現在のロシア東部、バイカル湖以東のシベリア鉄道やアムール川に沿った地域。現在のブリヤート共和国やハバロフスク地方、沿海州などに当たる。当初はカムチャッカ半島、ベーリング海峡にまで及ぶ広大な領土を与えられたが、1920年12月30日のモスクワ政府との国境条約で、カムチャッカ州を譲渡した。
首都は当初ヴェルフネウディンスク(現在のウラン・ウデ)にあったが、1920年10月以降はチタにおかれた。このためチタ共和国と呼ばれることもある。
[編集] 歴史
1919年にソビエト政権打倒を掲げてシベリア出兵が開始され、特にその中核である日本軍がシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を占領すると、ソビエト政権は日本軍との直接対決を避けるためにブルジョア民主主義を掲げた緩衝政権の樹立を構想し、クラスノシチョーコフを首班として、社会革命党などの協力を得て成立させた。しかし、実際にはボリシェビキの影響力が強く、占領を続ける日本軍との対立が続いた。
その後、日本によるシベリア占領の長期化が国際的な批判を浴び、消耗による国内世論の反発も理由にして、1922年10月にシベリアからの撤兵を完了すると、この共和国は存在意義を喪失し、再びソ連に統合される事となった。