楢崎弥之助
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楢崎 弥之助(ならざき やのすけ、1920年4月11日 - )は、日本の政治家。
衆議院議員(11期)を歴任。社会民主連合書記長、同党副代表を歴任。
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[編集] 略歴
福岡県中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)卒業。九州帝大(現・九州大学)法学部卒業。松本治一郎の秘書を経て、昭和35年(1960年)の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党(社会党)公認で出馬し初当選(以後11期連続当選)。その後、社会党を離党し、田英夫らと共に社会民主連合(社民連)を結成し書記長、副代表を歴任した。
[編集] 国会の爆弾男
- ロッキード事件やリクルート事件など数々の疑惑を暴いたため「国会の爆弾男」との異名を持ち、政治スキャンダル追及の中心的役割を担った。
- 特に、リクルート事件では、自身がおとりとなり、リクルートコスモスが賄賂を贈ろうとする議員宿舎での会談の内容を日本テレビ放送網に隠し撮りさせ、『NNNニュースプラス1』にて放送され、一躍ヒーローとなった。ただしこの件については、「決定的瞬間を隠し撮りするために期待を持たせて何度も通わせたのは国会議員が国民を罪におとしいれようとしたことで道義的に問題」と山本七平におとり捜査の問題点を指摘されている。
- 1983年(昭和58年)に衆議院予算委員会で自衛隊のクーデター計画が浮上していると喧伝。だが、このクーデター計画自体がその後の調べで存在していないことが発覚。更にこの情報を提供した人物が詐欺で全国に指名手配されていたことが判り、国会は大きく混乱することとなり、楢崎は新聞に謝罪広告を出すことになった。また、影響で同年の総選挙で落選した。
- 浪人中の1984年(昭和59年)、福岡市長選に「市民派連合」のキャッチフレーズで立候補、落選。
- 1986年(昭和61年)、衆議院議員に復帰する。
- 平成5年(1993年)に勲一等旭日大綬章を受章する。これは、非自民連立政権下によるものだが、支持者の一部では野党政治家一筋だった楢崎が勲章を受けた事に違和感を感じるとする意見も上がった。
- 平成8年(1996年)に政界を引退した。
[編集] その他
- 国会議員時代の1964年に米国の原潜入港への反対デモに参加し、公務執行妨害罪で現行犯逮捕されたことがある。日本国憲法下で現行犯逮捕された現職国会議員はこれが初めてであった。
- 2006年に発生した、堀江メール問題では、過去に類似した騒動を起こしたことがある人物としてマスコミのインタビューに答えていた。この件については、苦言を述べている。
[編集] 関連項目
- 大出俊(「国会の止め男」)
- 永田寿康(「平成の爆弾男」)
- 前田宏三
- 福岡県出身の人物一覧