桂花團治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桂 花團治(かつら はなだんじ)は、上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。
ちなみに、2代目桂春蝶は生前に3代目花團治の襲名を持ちかけられたが、春團治の名跡に強い愛着を持っていたため、謝絶している。
[編集] 初代
初代 桂花團治(1875年9月 - 1942年12月23日)は、本名: 梅本八十二郎(古今東西噺家紳士録では梅本八十二と記載されている。)。
大阪市中央区千年町生まれ。初め花丸を名乗り、素人とも玄人ともつかず端席巡りなどをしていたらしいが、1902年頃に2代目桂文團治(後の7代目桂文治)に実力を見出されて門下となり、初代花團治を名乗る。
しかし、厳格な仕来りの残る名門定席は肌に合わなかったようで、花丸に戻り反対派の二流の寄席や端席や巡業などに身を投じ真打で活躍した、しばらくして花團治に復し1912年には草創期の吉本興業入り。やがて吉本も大きくなり、関西の寄席をほとんど支配するようになると、そのまま高座を引退。後に5代目笑福亭松鶴に請われて「楽語荘」同人となり、「上方はなしを聴く会」で17年ぶりに高座に上がった。
『三枚起請』『立ち切れ線香』『辻占茶屋』など、主に茶屋噺を得意としていた。弟子には花柳(後の3代目笑福亭枝鶴)、2代目花團治らがいる。
[編集] 2代目
2代目 桂花團治(明治中期? - 1945年)は、本名: 掛川晴美。享年不詳。
初め初代花團治の門下で花治(あるいは花次)を名乗るが、上方落語の衰退期に当たっていたため、桂金之助と共に軽口を勤める。
後に舞台俳優に転じた事もあった。「民謡座」に加入し、幹部となり歌手として後援会ができるほど人気も出るが、落語に対する愛着が断ち切れず、5代目笑福亭松鶴の勧め等もあり「楽語荘」同人となり、落語に復帰。1944年には2代目花團治を襲名したが、戦災により間もなく死去。十八番は『黄金の大黒』など。
[編集] 出典
- 『古今東西落語家事典』(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会共編、平凡社、1989年、ISBN 458212612X)
- 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)