栄村忠広
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所属球団 | 読売ジャイアンツ |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県枕崎市 |
生年月日 | 1961年9月10日(46歳) |
血液型 | O型 |
守備位置 | 外野手 |
投球・打席 | 右投両 *本文参照打 |
プロ入り年度 | 1983年 |
ドラフト順位 | ドラフト外 |
初出場 | 1988年 |
最終出場 | 1992年 |
経歴 | 鹿児島実業- 専売公社鹿児島- 読売ジャイアンツ |
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栄村 忠広(さかえむら ただひろ、 1961年9月10日- )は、元プロ野球選手(外野手)。鹿児島県枕崎市出身。
目次 |
[編集] 来歴・人物
鹿児島実業から専売公社鹿児島を経て、1983年ドラフト外で読売ジャイアンツに入団。1987年にイースタン・リーグで盗塁王のタイトルを獲得。1988年にはウォーレン・クロマティが怪我で戦列を離れセンターの守備要員として初めて一軍に昇格。
当初右打であったが、俊足を生かすためにスイッチヒッターへの転向を経て左打になった。
同年7月6日、中日ドラゴンズ戦(札幌円山球場)で中尾孝義が打ち返した打球をめぐりレフトを守っていた吉村禎章と衝突し、吉村は重傷を負った。
その事故後出番が激減し、1991年には志願してオリックス・ブルーウェーブに移籍した。しかし1年で戦力外となり、1992年に台湾に渡っている。なお、現在パ・リーグ審判の栄村隆康とたびたび混同されるが、まったくの別人である。
台湾でのプレー後完全引退、帰国して就職したが、動向はしばらく不詳であった。
これは吉村との衝突・負傷で(当時の)全ての球界関係者・ファンからの罵声・白眼視、アンチ巨人からの揶揄に苦悩した経験から[1]、栄村本人が『もう表舞台には姿を現したくない、誰にも後ろ指さされずひっそり生活してきたい』旨を表明し、あらゆる球界関係者やマスコミとの接触を拒絶していたためという。その後、精神的な余裕が出来た後に一度テレビ番組やライター(※1)の取材に応じ、テレビ番組では本人のインタビューや草野球に興じる姿が紹介された。その中で、自身がバッシングや吉村の負傷に対する自責の念から苦悩していた頃、逆にその吉村から激励された事も明らかにしていた。
(※1)高山文彦『運命(アクシデント)』(文藝春秋) (同書の中で吉村は怪我をして結果的に人間的に成長出来たので今では後悔していないと話している。)なお、吉村の引退に際して、吉村と栄村がそれぞれSports Graphic Numberに登場し、栄村の近況も紹介されていた。
- ^ 例:吉村に重傷を負わせて以降、はた山ハッチ(やくみつる)のマンガ内にて「ダミアン」と呼ばれるようになり、しょっちゅうネタにされた。その多くは、吉村の二の舞、三の舞にさせるようなものがほとんどだった(因みに被害者は、千代の富士、マイク・タイソンなど)。また、容姿は、従来の背番号66の上にもう一つ6が付け加えられ(ダミアンが6月6日午前6時生まれだから)、更にはバイキンマンを彷彿とさせる角と尻尾を生やしていた(吉村が「アンパンマン」と呼ばれてたので、その宿敵という意味合いが強かったものと思われる)。
[編集] 通算成績
- 74試合 43打数 10安打 0本塁打 2打点 11盗塁 打率.233
[編集] 背番号
- 66(1983年 - 1991年)