柳原家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳原家(やなぎわらけ、やなぎはらの読みは慣例)は、名家の家格を有する公家。京都十三名家。藤原北家日野家。家業は文学。江戸時代の家禄は202石。家紋は鶴の丸。明治維新後、伯爵。
日野俊光の4男資明を祖として鎌倉時代末期に創設された。室町時代末期には各地の所領が押領され、経済基盤を確保するために資綱・量光・資定3代に渡って、所領のある因幡国に下向した。江戸前期の資廉は霊元天皇の従兄弟にあたり、武家伝奏をつとめて幕府との交渉に活躍し、江戸中期の光綱も、議奏と武家伝奏に就任した。また柳原家は、代々文学、文筆を家業とし、光綱の子である紀光(光房)は歴史書「続史愚抄」を著している。
柳原家は幕末から明治維新にかけて人材を輩出する。光愛は権中納言、議奏となり、国事に挺身した。光愛の子、前光(さきみつ)は、西園寺公望とともに少壮公家中の逸材と言われ、戊辰戦争では東海道鎮撫副総督を務め、維新後、外務省に勤務。外務大丞、清国公使、ロシア公使、元老院議長、枢密顧問官、宮中顧問官を歴任した。前光夫人の初子は、伊達宗城の二女である。光愛の二女で前光の妹、愛子(なるこ)は、明治天皇に典侍として仕え、大正天皇の生母となった。明治期に柳原家は東京に移住したので、空家となった京都の邸宅は同志社女子大学の校舎として利用された。
前光の後を嗣いだ義光は野心家であったが、妹・燁子(あきこ)の離婚騒動や娘・徳子の不良華族事件、最後には自分自身にも同性愛疑惑が発覚し、天皇家に近い一族がスキャンダルまみれとなったことで世間から猛烈な非難を浴びて権威は失墜した。ちなみに燁子は歌人・柳原白蓮(びゃくれん)の名前の方が著名である。
承光の娘留美子は、皇太子徳仁親王のお妃候補として名前が挙がった。