柳原資明
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柳原 資明(やなぎわら すけあきら、永仁5年(1297年) - 文和2年/正平8年(1353年)7月27日)は、南北朝時代の公卿で、柳原家の祖。正二位権大納言。後伏見上皇の院庁執権であった権大納言日野俊光の4男。「柳原殿」と称される邸宅に住んでいたため、「柳原」を家名とした。
正安3年に従五位下に叙任され、文保元年21歳で花園天皇の蔵人に任じられて以後は、専ら持明院統系の天皇・上皇に仕えた。後に右大弁・左大弁・参議を歴任後、光厳天皇のもとで正三位権中納言にまで上るが、鎌倉幕府滅亡後、復位した後醍醐天皇によって昇進人事を無効とされると、建武政権に激しく反発した。足利尊氏によって光明天皇が擁立されると、改めて権中納言に任じられて、以後北朝の有能な実務官僚として活躍した。建武4年(延元3年)、権大納言に上った。貞和2年(正平元年)、一旦は引退したものの2年後には光明上皇の、さらに正平一統後には崇光上皇の院別当を務めた。
文和2年死去、死因は赤痢であると伝えられている。