松本大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本 大(まつもと おおき、1963年12月19日 - )は、日本の実業家。東京大学法学部卒業後、ソロモン・ブラザーズを経てゴールドマン・サックスに勤務。債券トレード、デリバティブ取引などに従事したのち、マネックス証券を設立。現在マネックス・ビーンズ・ホールディングス代表取締役社長CEO。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 大学卒業
埼玉県浦和市(現:さいたま市)に生まれる。父は講談社の編集者。担当作家には安部譲二がいた。他に母一人、兄一人。
1974年、小学校5年生のとき兄が小児癌で他界。人生観への大きな影響を受ける。
1976年、開成中学総代入学。当時の友人に松江泰治(後写真家、第27回木村伊兵衛賞受賞)。松江に頼まれて写真部の部長になる。1979年開成高校へ進学。遊んでばかりの大は成績は常に良くなかったという。大学受験に成功したのは偶然自分の得意な部分が出たからと本人は言う。 1982年、東京大学教養学部文科Ⅰ類入学。在学中、高校時代の友人から塾経営に誘われる。実業家の息子であるその友人の塾経営を手伝うことで、サラリーマン以外の生き方があることを知る。
1984年、1985年の2度にわたってアメリカを旅する。1985年夏の一人旅で、タフツ大学の学生寮に泊まり込むも言葉がまったく通じず、孤独と屈辱を味わう。この時、英語をきちんと喋れるようなろうと決意、外資系会社への勤務を目指す。
1986年、社会人になるにはまだ早いと考え自主的に1年留年。
[編集] 米国投資銀行へ
1987年、ソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社。10人いた同期生の中には、後に「メイク★マネー!」を記し、1980年代終わりから1990年代半ばのバブル崩壊後の日本で、最先端金融技術を持つ外資系金融会社が何を行っていたかの貴重な記録を残す末永徹がいる。
大はアメリカ本社での研修時、トップクラスの優秀な成績をおさめ、同時入社の他の日本人社員が早々と日本に帰国させられている中、ただ一人アメリカに残され特別教育を受ける。高校までは理系志望であり、途中心境の変化から文系に転じたが、もともと数学が得意であったことが生きた。
集団研修の後には、ジョン・メリウェザーのチームに配属される。大はメリウェザーと後々まで続く交友関係を持ち、また彼を自分の師匠であるとする。1988年ごろ日本へ戻り稼ぎ頭の1人となる。同時期の日本の稼ぎ頭には、1990年代を通してソロモン・ブラザーズに多大な利益をもたらし副会長へ上り詰める明神茂がいた。
1990年、ゴールドマン・サックスへ移る。当時、ゴールドマン・サックスは、ソロモン・ブラザーズと同じビルの1つ上のフロアにあった。これ以上ソロモンには居られないと思った大は、そのまま非常階段を1階だけ上り、会社を移る算段をつけてしまった。そもそも1980年代後半は、キング・オブ・ウォールストリートと呼ばれたソロモン・ブラザーズから、その経営の拙さもあり数多くの人材が他の証券会社に流出していた時期であり、大も同じく経営の拙さから会社に幻滅を感じ転職したといえる。
ゴールドマン・サックスでは金利デリバティブ取引、債券のオプション取引やスワップなどを行った。1994年には最年少ゼネラル・パートナーとなる。この当時のゴールドマン・サックスはまだ株式を公開しておらず、パートナーになるということは共同経営者の1人として株主になるということであり、大変な栄誉と成功を意味した。
[編集] 起業
1998年の2月、インターネットの可能性に着眼、個人向けネット金融ビジネスの立ち上げを会社に進言する。しかしゴールドマン・サックスは“世界最強の投資銀行”であり、個人向けビジネスに会社上層部が興味を持つことはなかった。大はそれなら自分がやろうと決断し、その年の秋にはパートナーの地位を投げ打って辞めてしまう。このことは大変な驚きを持って周囲に受け止められた。ゴールドマン・サックスは当時、1999年の株式公開を目指して準備中だった。株式が公開されれば、パートナーである大の持ち株には、市場で数十億円の価値が付くことは間違いなかった。それにも関わらず、あと数ヶ月を待とうともせず、自分のやりたいことのためにその地位を投げ打ってしまったからである。
1998年秋、ソニーCEOだった出井伸之に会い、ネット証券設立で賛同を得る。翌1999年4月、ソニーとの折半出資でマネックス証券を設立する。設立当時の出資者はJPモルガン、リクルート、ジョージ・ソロス率いるソロス・ファンド・マネジメント、ゴールドマン・サックス、ポール・チューダー・ジョーンズが運営し日本法人CEOを明神茂が勤めるチューダー・キャピタル、ジョン・メリウェザー運営のJWMパートナーズ。
マネックス証券は、順調に成長。2000年8月には、会社設立からわずか1年4ヶ月で東証マザーズに上場。松井証券、イー・トレード証券等と並び、日本におけるネット証券の嚆矢となり大は有力な若手ベンチャー経営者として一躍人々に知られるようになる。目の前にあったゴールドマン・サックス株式公開益を捨てて起業したことも、「10億円を捨てた男」として名声をさらに高めた。2001年5月には米経済誌『フォーチュン誌』で、「次代を担う世界の若手経営者25人」の1人に選ばれた。
[編集] 出演番組
[編集] ライブドア・ショック(マネックス・ショック)
順風満帆だった経営だが、2006年1月のライブドア・ショックの対応で、大の声望は地に墜ちる。1月16日月曜のライブドアと堀江貴文への東京地検特捜部による強制捜査開始翌日の1月17日後場、マネックス証券はライブドア株と、その関連会社株の信用取引における担保能力を予告なく掛け目ゼロにしてしまった。これにより、ストップ安に張り付き売ることすら出来ない状態のライブドア株所有の個人投資家は、一気に追いつめられる。ライブドア株が売却不可能な状態である以上、追加証拠金を入金するか他の株を売らなければならなくなる。さらに市場では、マネックス証券の決定に追従する証券会社が出るのではないかという懸念から、パニック的な売りが出る。
このことから、ライブドア・ショックの際の日本市場の暴落に、少なくとも追い打ちを掛けたのはマネックス証券であるとの認識が急速に広まってしまう。さらには数日後、大は自身の心境を語るサイトで、ジョン・メリウェザーが大を訪れ、落ち込んでいるところを励ましてくれたと執筆した。世間では多くのヘッジファンドがこの機に乗じて空売りをかけ、巨額の利益を上げていたことが知られていたので、「この一件は、松本大とヘッジファンドが仕組んだものではないのか」といった憶測を呼ぶことになってしまう。事態の重大さや及ぼした影響の大きさから、この事件を「ライブドア・ショック」ではなく「マネックス・ショック」と呼ぶ人も多い。
ただし、これらの信用掛け目に関する決定は制度上は法律に違反するものではなく、ライブドアのような問題企業の株を担保として預かることはマネックス証券の金融機関としての信用力を低下させるものであるから、この判断は上場企業としては妥当とする見解もある。一方、松井証券社長の松井道夫による「証券会社と顧客は信用市場で同じようにリスクを負っているのであり、掛け目ゼロは、そのリスクをすべて顧客に押し付けたことを意味している」との批判、与謝野馨金融・経済財政担当相(当時)による「証券会社は投資家を大切にするべきであり、そうしない会社はいつか投資家に捨てられる」との声明もあり、どちらに理があると考えるかは判断の分かれる点となっている。しかし、マネックス証券は個人投資家を相手にしているのであり、その個人投資家の多くを一気に崖っぷちに追い込むこの行為は、多くの顧客に強い警戒感を与えてしまった。
[編集] 主な著書
- 「10億円を捨てた男の仕事術」(2003年5月29日)後、「私の仕事術」と改題し文庫化
- 「こうすれば日本はよくなる!」(2002年11月8日)
- 「トーキョー金融道」(2003年3月)成毛眞、藤巻健史との共著
- 「『株式投資』改革宣言」(2001年8月)松井道夫との共著