木村伊兵衛
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木村 伊兵衛(きむら いへえ、1901年12月12日 - 1974年5月31日)は戦前・戦後を通じて活躍した日本を代表する著名な写真家の一人。
報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残しており、日本近代写真史においてはもっとも重要な人物である。特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなす。
[編集] 来歴
- 1901年 - 東京市下谷(現在の東京都台東区)に生まれる。子供のころからおもちゃカメラを手にして写真に興味を持つ。
- 1920年 - 砂糖問屋の台湾台南市支店に勤務する傍ら、同市にあった遠藤写真館で営業写真の技術を習い、アマチュア写真クラブにおいて頭角を現す。
- 1924年 - 帰国後、日暮里で写真館を開業。
- 1930年 - 花王石鹸(現・花王)広告部に嘱託として入社、ライカでリアルな広告写真を撮ることで注目される。
- 1932年 - 月刊写真雑誌『光画』を発刊。
- 1933年 - 名取洋之助、伊奈信男らと「日本工房」に参加、写真報道を小型カメラの特性を生かして切り開いた。
- 1938年 - 国家総動員法公布により『写真週報』の写真家に抜擢。内閣情報部傘下の「写真協会」へ所属。
- 1941年 - 対外宣伝プロダクション「東方社」の写真部責任者に就任。
- 1942年 - グラフ誌『FRONT』の制作・発刊に携わる。
- 1943年 - 写真集『王道楽土』を出版。
- 1950年 - 日本写真家協会が設立され初代会長に就任。また、写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じて、アマチュア写真の指導者として土門拳とともにリアリズム写真運動を推進した。
- 1956年 - 「日中文化交流協会」発足と同時に常任理事に就任。以降、日中国交回復前後の中国を度々訪れ、日中友好に尽力した。
- 1974年 - 日暮里の自宅でその生涯を終えた。
- 1975年 - 故人の功績をたたえ、新人写真家を対象とした「木村伊兵衛写真賞」(朝日新聞社主催)が創設される。以後、新人写真家の登竜門として数多くの著名写真家を輩出している。
[編集] 作風・人物像
ことさらにテーマを強調するのではない、演出のない自然な写真を撮ることに定評があり、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で見事に切り取っている。ポートレートにおいても、人物そのものを映し出し、自然なしぐさをも的確に撮っている。首相在任当時の池田勇人を撮る際、弟子に撮らせて自分がなかなか撮らず、池田夫人が池田の衣紋を直そうとした際に居合い抜きのようにさっと手持ちのライカで撮った、という逸話が残っているほどである。高峰秀子も著書にて、「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と評している。
カメラにも精通しており、写真雑誌の対談にて江戸っ子らしくベランメェ口調でカメラや写真を語り、レンズに関しては「あらゆるレンズには必ず出っぱっているところと引っ込んでいるところがあり、平坦性が悪くピント位置が定まらない。ピント位置が少しでも移動すると中心が良くなったり、外側が良くなったりする。レンズは立体物を撮るのだから平面チャートで数値を問うだけではわかり得るものではない」という「デッコマ・ヒッコマ論」を説いたことでも知られる。晩年は「アサヒカメラ」誌(朝日新聞社)の「ニューフェース診断室」の実写担当ドクターも勤めた。
プロからアマチュアに至るまで多くの崇敬を集めるこのスナップの達人中の達人に、どうしたらうまく写真が撮れるのか聞いたところ、『いつでもカメラを手から離さずにいる事が大事だ』と答えたとされる。
[編集] 関連図書
- 三島靖『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』平凡社<平凡社文庫>、2004.1 ISBN 4582764886