名取洋之助
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名取 洋之助(なとり ようのすけ、1910年9月3日 - 1962年11月23日)は、戦前から戦後にかけて、日本を代表する写真家、編集者。実業家名取和作の子。
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[編集] 生涯
東京に生まれるも、ドイツにて学び、ウルシュタイン社(ベルリン)の契約写真家となり、その身分のまま帰国。
戦前は、1933年に木村伊兵衛、原弘、伊奈信男、岡田桑三らとともに日本工房を設立し(翌年、名取との意見の対立により、木村、原、伊奈、岡田が脱退し、日本工房は事実上崩壊。太田英茂らの参加を受け、改組されて第2次日本工房となる)、1934年には、対外宣伝誌『NIPPON』を創刊。土門拳、藤本四八などの写真家、山名文夫、河野鷹思、亀倉雄策などのグラフィックデザイナーを用いつつ、従来の日本のレベルをはるかに超えた内容の誌面を提供しつづけた。
戦後は、週刊サンニュースや岩波写真文庫の編集に携わり、辣腕を振るった。岩波写真文庫は、第1回菊池寛賞を受賞している。
一貫して、西欧流の「報道写真」および「編集」を定着させようと奮闘し、組写真などを多用することにより、写真でメッセージを伝達するという方向に注力した。編集者としては自分の意志に基づき写真作品を強引にとりあつかう傾向が強く、歯に絹を着せない物言いとあいまって、写真家と対立することもしばしばあった。例えば、土門拳との確執などは、その典型的な例である。
芸術的な、または、主観的な写真作品を「お芸術写真」と呼び、その軽蔑を隠すことはなかった。1962年に癌のため死去。享年53歳。(満52歳)
[編集] 名取洋之助写真賞について
社団法人日本写真家協会が2005年に創設。30才未満の写真家が対象となっている。第1回の審査員は、金子隆一、椎名誠、鳥越俊太郎、田沼武能の4人([1]、[2])。
[編集] 著書
- 新しい写真術(フォトライブラリー3)/慶友社/1955年
- 組写真の作り方(フォトライブラリー7)/慶友社/1956年
- 写真の読みかた/岩波新書/1963年
[編集] 写真集
- 『GROSSES JAPAN=大日本』/カール・シュペヒト社/1937年(1942年再版)
- 『麦積山石窟』/岩波書店/1957年
- 『ロマネスク 西洋美の始源』(文:柳宗玄)/慶友社/1962年
- 『人間 動物 文様 ロマネスク美術とその周辺』/慶友社/1963年
- 『名取洋之助写真集:ドイツ・1936年』/岩波書店/2006年(ベルリンオリンピック大会特派員)
[編集] 主要展覧会
- 名取洋之助の仕事=大日本/1978年/西武美術館
- 『名取洋之助作品展「中国の人々・1956」』/1993年/JCIIフォトサロン
- 『名取洋之助作品展「麦積山石窟」』/1994年/JCIIフォトサロン
- 『名取洋之助作品展「アメリカ・1937年」』/1996年/JCIIフォトサロン
- 『名取洋之助作品展「ロマネスクpart I」』/1997年/JCIIフォトサロン
- 『名取洋之助作品展「ロマネスクpart II 人間・動物・文様」』/1998年/JCIIフォトサロン
- 『名取洋之助と日本工房作品展 報道写真の夢』/2003年/JCIIフォトサロン
- 『報道写真の先駆者・名取洋之助の仕事「ドイツ・1936年」』/2005年/JCIIフォトサロン
- 『名取洋之助と日本工房』展/2006年/福島県立美術館、川崎市市民ミュージアム、足利市立美術館、長崎県美術館
関連展
- 『日本近代写真の成立と展開』/1995年/東京都写真美術館
- 『視覚の昭和 1930-40年代展』/1998年/松戸市美術館準備室
- 『ドキュメンタリーの時代 名取洋之助・木村伊兵衛・土門拳・三木淳の写真から』/2001年/東京都写真美術館
[編集] 主要文献
- 「名取洋之助の仕事=大日本」カタログ/1978年/西武美術館
- 名取洋之助の時代/中西昭雄/朝日新聞社/1981年
- わがままいっぱい名取洋之助/三神真彦/筑摩書房/1988年 (後にちくま文庫)
- 報道写真の青春時代 名取洋之助と仲間たち/石川保昌/講談社/1991年
- アメリカ1937/講談社/1992年
- 日本の写真家18(名取洋之助)/岩波書店/1998年
- 名取洋之助と日本工房[1931-45]/白山眞理・堀宜雄・編/岩波書店/2006年
- 「挫折」の昭和史/山口昌男/1995年/岩波書店(岩波現代文庫2005年)