曽蔭権
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曽 蔭権(曾蔭權、そう いんけん、広東語:ジャン・ヤムキュン、北京語: ゼン・インチュアン、拼音: Zēng Yīnquán, 1944年10月7日 - )はイギリス領香港政庁および中華人民共和国香港特別行政区の元官僚、現香港行政長官。通称ドナルド・ツァン(英語名:Donald Tsang Yam Kuen)。
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[編集] 経歴
香港生まれ。大学予科卒業後、1967年にイギリス統治下にある香港政庁の公務員となる。入庁時はノンキャリアである行政主任であったが、1971年にキャリアコースである政務官試験に合格したのをきっかけに昇進を続け、1995年には中国系としては初めて財政司(財務局長)に就任する。1997年の香港返還前日にはイギリス政府よりKBE勲章を受勲している。
[編集] 返還後
当初は財政司司長(財政官)に横滑りし、2001年に陳方安生(アンソン・チャン)がイギリス領香港政庁のクリス・パッテン総督に任命されて以来勤め続けていた「特区政府No.2ポスト」である政務司司長(政務官)を辞任すると後任として就任。2002年大紫荊(GBM)勲章受勲。2005年3月に董建華が行政長官を辞任すると香港基本法の規定により行政長官代行に就任。補欠選挙は同年7月に行われるため政務司司長の後任は置かれず、曽蔭権がそのまま兼任することとなった。
2005年5月26日、7月に行われる補欠選挙に立候補するため政務司司長(政務官)および行政長官代行職を辞任した(基本法の規定により、政務司司長の身分のまま立候補することはできない)。
[編集] 行政長官に就任
董建華の辞任(事実上の解任)直後から様々なルートにより中央政府意中の後任人選であることが伝えられていた。6月16日、曽蔭権は796名の選挙委員のうち674人の推挙および40人の支持をとりつけ、他に立候補に必要な100名以上の推挙を獲得した者がいないため自動的に次期行政長官に当選した。6月21日、中華人民共和国国務院より正式に行政長官に任命され、同24日には北京にて宣誓を行い、行政長官としての職務を開始した。
2007年3月25日の行政長官選挙で再選された。
[編集] 人物
敬虔なカトリック教徒であり、毎朝ミサに参加することで知られる。このことはイギリス統治下の香港政庁の官僚出身であることとともに、香港左派(親中派)から就任前に警戒される原因となった。
しかし、中国中央政府が経歴と思想が完全に英国式の人物でイギリス領時代からのキャリア高級官僚である曽蔭権を適任者として選び、それに対して現地香港の親中派が「あまりにも明確な親英派の人物である」と懸念したという捩れ現象は返還後の香港と中国との関係における数々のパラドックスを象徴している。
返還後の初代長官である董建華が行った統治スタイル(親中派もろ出しかつコネ万能型のアジア式)は香港市民にとって「不評」や「顰蹙」を通り越して、行政への「不信」や「拒絶」により人材や資本が香港からの急激な離脱の姿勢を見せる「深刻な社会不安の域」にまで達し、危機的な状況を呈するようになった。この現実を目にした北京政府は香港の統治が「返還前のようなイギリス式」でなければ上手くいかないことを悟ったようである。そして、任期中の董建華を解任した。
北京政府が後任の最適任者として「明らかな親英派で敬虔なカトリック教徒」の曽蔭権を選んだのは、前任者の下で一国二制度が失敗しかけている状態を「面子を二の次にしてでも立て直さなければならない」という背に腹を代えられない事情があったと考えられる。
そして香港社会は曽蔭権の行政長官就任を素早く歓迎し「社会不安」の危機的な状態は解消された。
蝶ネクタイを愛用していることから「蝶ネクタイの曽(煲呔曾、Bow-Tied Tsang)」のあだ名がある。また、イギリス領香港政庁時代に官僚としての卓越した優秀さからナイト(サー)の称号を叙勲して保持しているが「サー・ドナルド」と敬称で呼ばれることは本人が好まないと言われている。
父の曽雲、弟の曽蔭培は共に警察官であり、曽蔭培は警察トップである警務処長まで務めた。
[編集] 外部リンク
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