於大の方
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於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日))は初め松平広忠正室、のちに久松俊勝夫人。徳川家康の母として有名。晩年は「伝通院」と称した。なお、「於大」は後年の創作であって、実名は不詳である。
於大は尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人於富の間に、父・忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。(青山政信の娘で忠政の養女であったという説あり)
父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせたが、松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、天文10年(1541年)に娘の於大を清康の後を継いだ松平広忠に嫁がせた。翌・天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男竹千代(のちの徳川家康)を生む。
しかし忠政の死後水野家を継いだ於大の兄水野信元が1544年に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従ったため、於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返された。於大は1547年には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に水野家と松平家の間で帰趨が定まらず、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には三男三女をもうける。この間、家康と音信を絶えず取り続けた。
桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した家康は、久松俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は夫・久松俊勝の死後、剃髪して伝通院と号す。
関ヶ原の戦いの後の1602年には、秀吉未亡人・北政所おねや後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川家が豊臣家に敵意がないことを示した。同年、家康の滞在する京都伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。彼女の菩提寺は各地に建てられた。
於大の出生地・東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。