我那覇和樹
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我那覇 和樹 | ||
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名前 | ||
愛称 | ガナピー、ガナ | |
カタカナ | ガナハ カズキ | |
ラテン文字 | GANAHA Kazuki | |
基本情報 | ||
国籍 | 日本 | |
生年月日 | 1980年9月26日(27歳) | |
出身地 | 沖縄県 | |
身長 | 182cm | |
体重 | 77kg | |
血液型 | O型 | |
選手情報 | ||
在籍チーム | 川崎フロンターレ | |
ポジション | FW | |
背番号 | 9 | |
利き足 | 右足 | |
クラブチーム1 | ||
年 | クラブ | App (G) |
1999-現 在 | 川崎フロンターレ | 231 (67) |
代表歴 | ||
2006 | 日本 | 6 (3)
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我那覇 和樹(がなは かずき、1980年9月26日 - )は、日本のサッカー選手。Jリーグディビジョン1 (J1)・川崎フロンターレ所属。ポジションはフォワード。
目次 |
[編集] 来歴
沖縄県那覇市出身。小学生の頃に宇栄原(うえばる)FCでサッカーを始め、小禄(おろく)中学校から沖縄県立宜野湾高等学校を卒業後、川崎フロンターレに入団した。
ルーキーイヤーの1999年5月2日、Jリーグディビジョン2 (J2) のベガルタ仙台戦(仙台スタジアム)でデビュー。翌2000年には5月13日のJリーグディビジョン1 (J1) 1stステージの名古屋グランパスエイト戦(等々力陸上競技場)で途中出場し、後半終了直前に日本代表ゴールキーパーの楢﨑正剛から初ゴールをあげた。そして1stステージ最終節のセレッソ大阪戦(長居スタジアム)での活躍(詳しくは長居の悲劇の項目を参照)をきっかけにレギュラーに定着。その活躍はJ1で低迷するチームにおいてヤマザキナビスコカップ準優勝とともに、この年の数少ない明るい話題となり、優秀新人賞(新人王に次ぐタイトル)を獲得した。
J2に降格した2001年は目立った活躍もなかったが、2002年途中から再びレギュラーポジションを奪取。2003年は開幕3試合連続ゴールを決めるなどの大活躍でチームを引っ張り、2004年には川崎フロンターレのストライカーとして、J2リーグ得点ランク2位タイ(日本人選手としては最多タイ)の22得点を記録。チームにおける絶対的存在になった。この年は11月23日のヴァンフォーレ甲府戦(等々力)で、シーズンにおけるチーム100得点目を決めるなど節目のゴールを挙げている。
2005年は4月17日の名古屋グランパスエイト戦(等々力)で、ゴール前で味方選手との衝突により左脛骨陥没骨折のアクシデントに見舞われたが7月に復帰し、リーグ戦では26試合に出場し6得点を挙げた。
翌2006年シーズン開幕戦のアルビレックス新潟戦(等々力)で、J1では自身初(J2も含めると3度目)のハットトリックを達成。第2節の京都パープルサンガ戦(西京極)でも2得点し、得点ランキングで一時単独トップに立ち、全国的な注目を浴びる存在となった。同年のJリーグオールスター(カシマスタジアム)では、監督推薦によりJ-EASTの選手として初選出。その後リーグ戦ではゴールを量産し続け、シーズン終了時には18得点でJリーグ得点ランキング第3位となった(広島・佐藤寿人と並ぶタイ記録)。
2006年の活躍を認められ、同年日本代表監督に就任したイビチャ・オシムにより日本代表に初選出される(沖縄県出身者としては初めての日本代表選手)。オシムジャパン最初の試合となった8月9日の国際親善試合、トリニダード・トバゴ戦(国立霞ヶ丘陸上競技場)で先発出場。同年9月6日のアジアカップ予選、イエメン戦(サヌア)では後半途中から出場し、ロスタイムに決勝点となる代表初ゴールを決める。同年11月15日のアジアカップ予選、サウジアラビア戦(札幌ドーム)では、前半29分、後半5分に相次いで得点を挙げ、1試合2得点をマークした。
2007年シーズンも活躍が期待されたが、昨シーズン終盤に痛めた怪我の影響もありシーズン開始時は本調子に至らなかったが、徐々に調子を上げ、4月21日のアウェーの浦和戦では、浦和のホーム不敗記録を打ち破る得点を奪った。しかし、その翌々日の練習後、体調不良によりチームドクターから受けた点滴治療が問題視され、ドーピング違反で6試合出場停止処分を受けた。
2008年5月27日、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) は、我那覇の訴えを全面的に認め、Jリーグに対し、処分撤回を求める裁定、及び、CASによる仲裁にかかった費用の負担その他の仲裁を通じて我那覇が被った費用のうち2万ドルを負担すべきとの裁定をした。[1]
[編集] プレースタイル
シュート精度が高く、ゴールに向かって右45度からのシュートには絶対の自信を持つストライカー。ポストプレーの正確さにも定評があり、前線の潰れ役としても機能している。また、近年は得意の右足だけでなく左足やヘディングでも得点を奪えるようになった。
[編集] エピソード
- 2000年のJ1ファーストステージ最終節で勝てば優勝だったセレッソ大阪相手に先制点を挙げた。その後は同点に追いつかれるが、延長戦において浦田尚希のVゴールをアシストし、セレッソの優勝を阻止している(詳しくは長居の悲劇参照)。
- 2001年シーズンのJ2最終節において、途中出場ながら延長戦で山形の昇格を阻止するゴールを決めている。
- 私生活では2004年に長男が誕生。生まれた直後の試合では家族に捧げるハットトリックを達成している。
- テレビ朝日系のサッカー情報番組『やべっちFC』初期のオープニングに、我那覇の映像がこっそり使われていたことがある。同番組MCの矢部浩之は本人から言われるまで知らなかった。
- 我那覇のキャッチフレーズとして時折メディアで使用される「島人(しまんちゅ)ストライカー」はサンケイスポーツの命名である。
- フジテレビ系『ジャンクSPORTS』の中で、同郷の諸見里しのぶ(女子プロゴルファー)とともに「カナヅチ」であることを告白。「海は泳ぐものでなく見るものデス」という迷言を残した。
- 2007年、無申請での静脈注射でドーピング規定に違反したとして、6試合の出場停止処分、チームには1000万円の罰金が課された。しかし、実際は点滴にビタミンを追加していただけであり、全JクラブのドクターからJリーグに質問状が提出されるという異例の事態が発生した。その後、日本アンチ・ドーピング機関(JADA)は今回のケースが世界アンチ・ドーピング機関 (WADA) の規約違反にはならないとの判断を示した。Jリーグが規約集に掲げるWADA及びFIFAのルール基準では申請の必要性は無い。2007年末、我那覇とその弁護団はJリーグの処分を不服とし、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) へ仲裁の申し立てを行った。また、Jリーグ選手協会(JPFA, 藤田俊哉会長)も我那覇側の支持を表明。公式サイトでは仲裁申し立て費用の募金活動を行っている。
[編集] 個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1999 | 川崎 | 27 | J2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 6 | 2 |
2000 | 川崎 | 27 | J1 | 18 | 2 | 7 | 2 | 1 | 0 | 26 | 4 |
2001 | 川崎 | 17 | J2 | 31 | 2 | 3 | 1 | 5 | 1 | 39 | 4 |
2002 | 川崎 | 27 | J2 | 21 | 3 | - | 5 | 4 | 26 | 7 | |
2003 | 川崎 | 27 | J2 | 40 | 13 | - | 4 | 4 | 44 | 17 | |
2004 | 川崎 | 9 | J2 | 42 | 22 | - | 3 | 2 | 45 | 24 | |
2005 | 川崎 | 9 | J1 | 26 | 6 | 2 | 0 | 3 | 2 | 31 | 8 |
2006 | 川崎 | 9 | J1 | 32 | 18 | 9 | 3 | 1 | 0 | 42 | 21 |
2007 | 川崎 | 9 | J1 | 18 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 20 | 1 |
2008 | 川崎 | 9 | J1 | ||||||||
通算 | 日本 | J1 | 94 | 27 | 19 | 5 | 6 | 2 | 119 | 34 | |
日本 | J2 | 137 | 40 | 3 | 1 | 20 | 13 | 160 | 54 | ||
総通算 | 231 | 67 | 22 | 6 | 26 | 15 | 279 | 88 |
国際大会個人成績 | ||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2007 | 川崎 | 9 | 5 | 0 |
通算 | AFC | 5 | 0 |
- Jリーグ初出場: 1999年5月12日 J2第9節 対ベガルタ仙台戦(仙台スタジアム)
- Jリーグ初得点: 2000年5月13日 J1 1stステージ第12節 対名古屋グランパスエイト戦(等々力陸上競技場)
[編集] 代表歴
- 国際Aマッチ: 6試合出場 3得点 (2006)
- 国際Aマッチ初出場: 2006年8月9日 キリンチャレンジカップ トリニダード・トバゴ戦(国立霞ヶ丘陸上競技場)
- 国際Aマッチ初得点: 2006年9月6日 アジアカップ予選 イエメン戦(サヌア)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
2006 | 6 | 3 |
通算 | 6 | 3 |
[編集] 個人タイトル
[編集] 脚注
- ^ 我那覇和樹選手弁護団. ""我那覇選手を応援してくれた全てのかたへのお礼とご報告"" 2008-6-17閲覧.
[編集] 外部リンク
GK |
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1 川島永嗣|21 吉原慎也|22 植草裕樹|28 杉山力裕 |
DF |
2 伊藤宏樹|4 井川祐輔|5 箕輪義信|13 寺田周平|18 横山知伸|32 吉田勇樹|33 薗田淳 |
MF |
6 田坂祐介|8 山岸智|14 中村憲剛|15 原田拓|17 菊地光将|19 森勇介|20 養父雄仁|24 大橋正博|25 鈴木達矢|26 村上和弘|29 谷口博之|30 木村祐志|31 杉浦恭平 |
FW |
7 黒津勝|9 我那覇和樹|10 ジュニーニョ|16 鄭大世|23 久木野聡|27 都倉賢 |
スタッフ |
監督 高畠勉|コーチ エジソン|アシスタントコーチ 今野章|フィジカルコーチ マルセロ|フィジカルコーチ 里内猛|GKコーチ 古川昌明 |