徳川宗翰
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徳川 宗翰(とくがわ むねもと、享保13年7月29日(1728年9月3日) - 明和3年2月14日(1766年3月24日))は、水戸藩の第5代藩主。第4代藩主・徳川宗堯の次男。母は徳川吉孚の娘・美代姫。第3代藩主・徳川綱條のひ孫に当たる。正室は一条兼香の娘。側室は田沢氏、毛利氏など多数。子に徳川治保(長男)、松平頼図(五男)、松平頼救(六男)、松平保受(七男)、松平保福(八男)、中山信敬(九男)、時姫(尾張支流支流松平義裕正室)、嘉姫(二条治孝室)、国姫(今出川実種室)などがいる。官位は従三位。左近衛権中将。参議。
享保15年(1730年)、父の死去によりわずか3歳で後を継いで藩主となる。父と同じく行き詰まった藩政を立て直そうと尽力したが、これまた父親と同じく明和3年(1766年)2月14日に39歳の若さで死去してしまったため、改革は挫折した。後を子の徳川治保が継いだ。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1728年(享保13)7月29日、誕生。鶴千代を称す。
- 1730年(享保15)5月12日、水戸徳川家の家督を相続し、藩主となる。
- 1736年(享保21)4月13日、元服し、将軍徳川吉宗の諱を一字賜り、宗翰と名乗る。同日、正四位下に叙し、左近衛権少将に任官、左衛門督を兼任。
- 1737年(元文2)12月5日、従三位に昇叙し、左近衛権中将に転任。
- 1740年(元文5)12月1日、参議に補任。
- 1766年(明和3)7月14日、薨去。 法名:源良公 大隆院殿正蓬社賢譽瑞栄 墓所:茨城県常陸太田市の瑞龍山。
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