徳川宗睦
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徳川 宗睦(とくがわ むねよし、1733年10月27日(享保18年9月20日)-1800年1月14日(寛政11年12月20日))は、尾張藩の第9代藩主。
第8代藩主・徳川宗勝の次男。母は側室の一色氏(英厳院)。正室は近衛家久の娘・好君(たかぎみ、転陵院)。子は徳川治休(長男)、徳川治興(次男)。養子は徳川治行、徳川斉朝。官位は従二位、権大納言。名は「むねちか」とも読む。
幼名は熊五郎。宝暦11年(1761年)、父の死去により後を継ぐ。父同様に才能に優れ、山村良由や樋口好古らを登用して藩政改革に乗り出した。その結果に行なわれた新田開発や殖産興業政策、治水工事(熱田での開墾)の多くで成功を収めている。また、問題化していた役人の不正を防止するため、代官制度の整備も行なった。農村の支配強化も行ない、徴税の確実性を務めている。さらに父の時代に少々厳しくなりすぎていた刑法を改め、寛容なものにしている。藩士に対しても相続制度を確実なものとした。文化的にも父の代に基礎が築かれていた藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の創設して藩の教育普及に努めた。
ところがこのような改革を行ないすぎた結果、宗睦の晩年には財政赤字が見え始める。これを解決するために藩札を発行したが、これがかえって物価騰貴など経済の大混乱を助長してしまった。寛政11年(1799年)12月20日、67歳で死去。法号は天祥院。
宗睦の実子としては、好君との間に儲けた長男・治休(熊五郎・字:源孝世子、紹隆院)、次男・治興(慶之助・睦篤、字:源昭世子、天祐院)などがいたがいずれも早世、さらに支藩の美濃高須藩から治行を養嗣子に迎えるもこれまた早世していたため、ついに一橋家から斉朝を養嗣子として迎えて後を継がせた。このため、徳川義直以来の尾張藩の家系は断絶した。
宗睦は尾張藩の「中興の祖」と言われている。確かに藩政においては前半と中盤では大いに成功を収め、藩政を発展、安定化に導いた。しかし晩年の財政政策の失敗は、その後の尾張藩における財政破綻の一因を成したのであった。
[編集] 関係のある史跡
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1742年(寛保2)12月4日、元服し、将軍徳川吉宗の一字を賜り、宗睦と名乗る。従四位下に叙し、右兵衛督に任官。
- 1744年(延享元)12月1日、従三位に昇叙し、左近衛権中将に遷任。
- 1753年(宝暦3)12月1日、参議に補任。
- 1761年(宝暦11)8月5日、尾張国名古屋藩主となる。12月1日、権中納言に転任。
- 1781年(安永10)3月15日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
- 1799年(寛政11)12月20日、薨去。法名:天祥院殿鋻譽峻徳源明大居士。墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
[編集] TV番組
平成6年(1994年)4月から10月にかけて、テレビ朝日系列で『殿さま風来坊隠れ旅』という番組が放送された。これは紀伊藩主徳川治貞(三田村邦彦)と尾張藩主徳川宗睦(西岡徳馬)が主役の勧善懲悪時代劇で、もちろんフィクションである。しかし、それまで愛知県内でも無名に等しかった徳川宗睦の名が知れ渡った唯一の事例である。
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