徳川宗勝
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徳川 宗勝(とくがわ むねかつ、1705年7月22日(宝永2年6月2日)-1761年7月23日(宝暦11年6月22日))は、尾張藩の第8代藩主。
尾張藩支流川田久保家初代・松平友著(尾張藩第2代藩主・徳川光友の十一男)の長男。母は湯本氏(円珠院)。正室は第4代藩主・徳川吉通の娘・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。官位は従三位、権中納言、右近衛権中将、右兵衛督、但馬守、左近衛少将。
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[編集] 経歴
[編集] 尾張藩主就任以前
宝永2年(1705年)6月2日生まれ。幼名は代五郎。第7代藩主で有名な徳川宗春の従兄弟に当たる。幼少時は祖母の縁者・鈴木重兵衛のもとで養育された。初名は友相、後に友淳。通称は監物という。その後も低身分の役人の下で幼年期や青年期を過ごしたため、宗勝はこの経験から立派な人物になっていたらしい。友相、友淳と名を改め、享保17年(1732年)、尾張藩の支藩・高須藩の松平義孝の養嗣子(この時期は松平義淳と名乗っていた)となってその後を継いだ。元文4年(1739年)正月13日、尾張藩主であった宗春が将軍・徳川吉宗によって強制的に隠居させられると、その後を継いで藩主となった。なお、高須藩主の家督は三男の松平義敏が継いだ。
[編集] 尾張藩主就任後
この頃、宗春の放漫財政によって尾張藩の財政窮乏化は深刻化していた。このため藩主となった宗勝は、藩財政再建を主とした藩政改革を試みる。もともと幼少時から苦労を知っていることもあって自ら倹約を率先して行ない、領民を苦しめないために増税を行なわないといういわゆる緊縮財政政策を採用したのだが、これが大成功して藩財政は再建されることとなった。ただしこれには先代・宗春の頃に築かれていた基盤があってこそという意見もある。しかし宗勝が名君であったのは明らかで、布施蟹養斎を登用して藩校・明倫堂の前身となる学問所を創設し、さらに様々な文化的書物の編纂を行なったこと、刑法の整備などを行なっている。ただし、刑法の整備においては寛容な一面もあるが、盗賊取締りのために死刑制度を復活させるなどの厳しい一面もあった。宝暦11年(1761年)6月22日、57歳で死去し、後を次男の徳川宗睦が継いだ。法号:賢隆院恩譽慈性源戴大居士。
先代藩主に宗春がいたためか、宗勝の影は薄いが、彼も名君の一人である。また、十五男十一女という子女に恵まれた人物でもあった。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1726年(享保11)12月16日、従五位下に叙し、但馬守に任官。
- 1732年(享保17)5月、美濃国高須藩主松平義孝の養子となる。6月、同藩主となる。
- 1733年(享保18)12月8日、左近衛権少将に転任。但馬守兼任如元。
- 1739年(元文4)1月13日、尾張国名古屋藩主となる。2月3日、従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。右兵衛督を兼任。また、将軍徳川吉宗の名の一字を賜り、宗勝と改める。それまでは義淳を名乗る。
- 1740年(元文5)12月1日、権中納言に転任。
- 1761年(宝暦11)6月22日、薨去。法名:賢隆院殿恩譽慈性源戴大居士。墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
[編集] 系譜
- 父:松平友著
- 母:湯本氏(円珠院)
- 正室:三姫(宝蓮院、徳川吉通の娘)
- 側室:お嘉代の方(英厳院、一色氏の娘)
- 側室:お登世の方(清光院、馬場氏の娘)
- 側室:お津屋の方(妙観院)
- 側室:おすめの方(寿光院、倉林氏の娘)
- 側室:お留屋の方(利光院)
- 側室:得船院
- 側室:不詳
- 側室:寺嶋そよ(仙宥院)
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