弓削氏
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弓削氏(ゆげし)とは、古代王族・物部氏の傍系一族。 物部尾興と弓削阿佐姫との子である物部守屋が弓削姓をミドルネームにした。→物部弓削守屋。 代々神事を司る出雲系の一族である。本拠地は河内国志紀郡(現在の大阪府八尾市弓削町あたり)一帯であり、一族の氏神である弓削神社がある。
[編集] 概要
遠祖を天照国照日子天火明櫛魂饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)とする。 「弓削」の由来は、弓を削っていたという説があるが、発音と漢字があってないのは、漢字が日本にもたらされる以前から呼び名があったからである。
飛鳥時代に大連を務めた物部守屋は蘇我氏との権力争い(有力ではないが、否定説もある。)に敗死し、兄弟の御狩の系統が後に石上氏(左大臣まで出世した石上麻呂は彼の曾孫に当たる。)として飛鳥時代末期から奈良時代に栄えたが、守屋の子孫も断絶したわけではなく、忍人と片野田が蘇我氏の合戦後も生き残り、数代下った後に弓削氏を名乗る事となった。
奈良時代後期に称徳天皇の病を治した事で寵愛を得た弓削道鏡は片野田の系統(曾孫に当たる。)で、太政大臣(禅師)、さらに法王まで出世したが、765年における墾田永年私財法の開墾制限に寺院は適用されなかった事も相まって、必然的に周囲の貴族達の反感を買う。そして、宇佐神宮神託事件で称徳天皇は彼を跡継ぎにしようとしたが、失敗、和気広虫・和気清麻呂姉弟を卑しい名前に改名させた上で流罪に処したが、腹癒せに過ぎず、何ら為すことないまま間もなく崩御、道鏡やその一族も失脚を余儀なくされたが、皇国史観の強い戦前においては清麻呂が忠臣の一人として祭られた反面、道鏡は平将門や足利尊氏と並ぶ日本三大悪人のレッテルを貼られる事となった。(ただ、宇佐神宮神託事件については、本当に道鏡を天皇にする内容だったのかの疑問もある。里中満智子氏作の『女帝の手記-孝謙・称徳天皇物語』では道鏡を大悪人に貶めようとした、貴族達の罠だったという解釈がなされていた。さらに称徳天皇の崩御も毒殺説がとられていた。)
弓削氏で長く系統が続いたのは忍人のそれで、中世に出た氏重は平岩氏に改称する。徳川家康の家臣だった平岩親吉はその6代子孫で、跡継ぎがいない為に断絶する事を惜しんだ家康は養子等で存続を図ったが、結局彼を最後に平岩氏は断絶する事となる。他にも氏重の弟である信重、氏政がそれぞれ長坂氏、都築氏に改称している。