平山五郎
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平山 五郎(ひらやま ごろう、文政12年(1829年) - 文久3年9月18日(1863年10月30日))は江戸時代の武士。姫路あるいは水戸藩出身。新選組副長助勤(新見錦降格後、局長、あるいは副長に昇格したともいわれる)。
[編集] 生涯
元姫路藩士堀川福太郎の門人で神道無念流の免許皆伝。花火の事故で左目がつぶれて隻眼だった。目が潰れた左側から打ち込むと猛烈に切り返し、逆に見えるはずの右側からだとわりあいに隙があったという。安政6年(1859年)に横浜戸塚の直心陰流萩原連之助の道場を訪ねた記録が残っている。
文久3年2月 清河八郎献策の浪士組に参加。芹沢鴨の六番組に配属され上京。清河の画策によって浪士組が江戸へ帰還すると、芹沢、近藤勇らとともに京都に残留。残留浪士たちは京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を結成。平山は幹部の副長助勤となった。壬生浪士組は芹沢鴨、新見錦ら水戸派と近藤勇、土方歳三らの試衛館派に分かれ、平山は水戸派に属し芹沢と行動を共にする。
5月に壬生浪士組が会津藩主松平容保に拝謁した際に平山は土方、藤堂平助らと剣術の稽古を披露している。
6月3日、不逞浪士取り締まりのため芹沢、近藤、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、野口健司、井上源三郎、島田魁そして平山の10人が大坂へ下った。淀川で舟遊びをしていると斎藤が腹痛を起こしたため船を下りて新地の遊郭へ向かった。途中、力士が無礼を働いたため殴り倒した(芹沢が斬り捨てたとも)。浪士たちが遊郭へ登ると力士の仲間たちが駆けつけ乱闘となった。力士たちは樫の棒で打ちかかってきたが、浪士たちはこれをい撃退し、力士に多数の死傷者が出た。浪士に死者はなかったが、平山が胸を打たれて負傷した。
8月12日、芹沢は生糸問屋大和屋を焼き討ちする乱暴を働いた。
八月十八日の政変に壬生浪士組は出動し、この機会に新選組の名を与えられた。
8月下旬に四条堀川の米屋に鉄砲を持った強盗が押し入り、永倉、斎藤、平山、山野八十八ら5人が出動。相手は鉄砲を撃ちかけてきたが抜刀してこれを討ち取り、この際に平山は負傷している。
9月に芹沢が思いのままにならない芸妓小寅に腹を立て遊郭の吉田屋に乗り込む騒ぎが起きた。永倉、斎藤、土方、平山が同行して主人を脅しつけ、小寅と付添の芸妓お鹿を断髪する辱めを与えた。この際に芹沢の命令で土方が小寅の、平山がお鹿の髪を切っている。
その頃、会津藩から近藤、土方、山南らに芹沢の処理の密命が下っていた。芹沢の乱暴狼藉に対し朝廷から召捕りの命令が下ったことが理由である。
9月16日(18日説アリ)、島原の角屋で宴会をした芹沢、平山、平間重助(芹沢の門人で副長助勤)は夜中に屯所の八木家に帰った。平山は玄関で倒れて起き上がれないほど泥酔していた。八木家には各々の愛人が待っており、平山は桔梗屋の芸妓吉栄とかねてから馴染で、奥の十畳間で吉栄と同衾して寝入った。同じ部屋では屏風を置いて芹沢とその愛妾のお梅が寝ていた。
深夜、数人の男たちが突然部屋に押し入り、芹沢と平山に切りつけた。平山は起きる間もなく即死。芹沢は起き上がって逃れようとするが、倒れてめった斬りされて殺された。お梅も惨殺された。平山と同衾していた吉栄は難を逃れている。襲撃が行われた時にたまたま便所に行っていたという。別室にいた平間は逃亡。
刺客が立ち去り、八木家の人々が様子を見に行くと部屋は血の海で平山の首は胴から離れていた。享年35。
表面的には長州藩の仕業として処理されたが、刺客は、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助と言われている。