山城 (戦艦)
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艦歴 | |
---|---|
発注 | |
起工 | 1913年11月20日 |
進水 | 1915年11月3日 |
就役 | 1917年3月31日 |
その後 | 1944年10月25日に戦没 |
除籍 | 1945年8月31日 |
性能諸元(竣工時) | |
排水量 | 39,154t |
全長 | 215.80m |
全幅 | 28.96m |
吃水 | 9.08m |
機関 | ブラウン・カーチス式直結型タービン 80,000馬力 |
燃料 | 石炭5,022t、重油1,026t(扶桑の値) |
最大速 | 22.5kt |
航続距離 | 14ktで8,000浬 |
兵員 | 約1,400名 |
兵装 | 主砲35.6cm(45口径)連装6基12門 副砲15cm(50口径)単装16基16門 53cm水中魚雷発射管6門 |
装甲 | 水線305mm 甲板64mm 主砲天蓋152mm |
山城 (やましろ)は、日本海軍の戦艦。扶桑型戦艦の2番艦。横須賀海軍工廠で建造された。
目次 |
[編集] 建造の背景
イギリス海軍において、単一口径主砲を中心線上に配置すると言う斬新な発想の戦艦「ドレッドノート」が誕生すると、世界は一気に弩級戦艦の時代を迎える事となり、その数年後には早くも超弩級戦艦の時代を迎えた。そのころの日本海軍はこの波に乗り遅れた形となっており、艦隊の旧式化は否めなかった。そこで、明治40年度計画で建造される予定の金剛型巡洋戦艦の内一隻を技術導入を目的に英国に発注する事となった。こうして建造されたのが金剛型巡洋戦艦四隻であるが、この完成時世界最強であった巡洋戦艦も次第に性能面で他国の戦艦に追い抜かれようとしていた。米国のニューヨーク級戦艦や、英国のクイーン・エリザベス級戦艦が金剛型よりも強力な戦艦として計画されているとの情報ももたらされていた。こうした欧米の動静は日本海軍にとって大きな問題であり、これに対抗する戦力として建造されたのが「扶桑」型戦艦である。
[編集] 苦しい防御設計
「扶桑」型戦艦の設計に当たって、日本海軍ではさまざまな案が検討されたが、結局、排水量30,600トン、速力22.5ノットとしてまとめられた。主砲の搭載に関しては連装、三連装、四連装などの案も検討されたようだが用兵側の練度の問題と、金剛型との主砲共有との考えを取り入れた結果、2連装6基12門でまとまった。この12門もの主砲を搭載するために重量を浮かす必要があり、舷側の防御装甲を削るしかなく、結果として防御力不足の戦艦に仕上がってしまった。さらに、当時の日本海軍は日露戦争時の様な近戦思想から抜け出せず、近距離戦重視の配置をしているため、水平防御力不足が後に露呈する事となる。
[編集] “欠陥戦艦”「山城」の誕生
扶桑型戦艦2番艦「山城」は1913年11月20日、横須賀海軍工廠で起工され、1915年11日3日進水、1917年3月31日就役した。完成時は世界最大の戦艦で、また初めて排水量が30,000トンを越えた戦艦でもあった。 しかし、完成早々に「扶桑」型の二隻はその欠陥を露呈した。まず公試運転において、速力が十分に発揮できない事と舵を切るだけで速力が大幅に低下する事が判明した。その後の射撃試験では主砲の爆風が艦全体を覆いつくし、艦橋構造物にダメージを与える事も判明している。通常、主砲は2個を1つとして指揮するのだが、三番主砲と四番主砲の間に煙突があるため三番、四番主砲の指揮がとりにくい。その後扶桑型戦艦の改良版の伊勢ではこの結果が、反映されている。これらの欠陥のため、問題が発見されるたびに改装を行う事となってしまい、大正~昭和初期にかけて改装に次ぐ改装を繰り返し、艦隊で行動した期間よりもドックで改装を行っていた期間のほうが長いという、“艦隊にいる方が珍しい艦”になってしまった。
[編集] 大改装
就役から大改装までの間、航空艤装の搭載などの小規模な改装は度々行われてきたが、1930年(昭和5年)から1935年にかけて、大改装が行われる事となった。これにより艦橋構造物は大幅に巨大、複雑化した。各種機器の改正も行われ、機関を換装し速力を24.5ノットまで上昇させる事に成功し、射撃指揮装置の換装と主砲、副砲の抑角増大により砲戦距離が飛躍的に伸びた。また、この改装の際に新式の九一式徹甲弾が使用可能となった。さらに航行中の水による抵抗の減少を図って艦尾を15m延長した結果出来た艦尾スペースに従来5番砲塔上に搭載されていた射出装置を移設し、航空機運搬用のレールを設けて水上偵察機及び観測機を3機搭載した。防御装甲の追加工事も行われている。この改装の結果、「扶桑」型の2隻は能力を向上させる事が出来たが、比較的早期に改装が計画されたためか、他の主力戦艦群と比べるとその装置は旧式で決して満足できるものでは無かったようである。
[編集] 太平洋戦争における戦績
太平洋戦争初期~中期は、「扶桑」型戦艦のほか日本海軍の戦艦のほとんどは内地にあった。「山城」は1942年6月のミッドウェー海戦に主力部隊として出撃するが戦闘には参加しなかった。その後も内地で待機の任務が続いたが、1944年になって戦況が悪化すると「山城」にも出撃命令が下った。作戦はレイテ湾への突入、輸送船団を撃破し上陸部隊を攻撃すべしという無謀な作戦であった。 このような欠陥があり老朽戦艦でさえも戦陣に出さなければならないほど事態は逼迫していたのである。
西村祥治中将の旗艦となった「山城」は、リンガ泊地から10月22日午後3時に出撃した。 10月24日午前にスールー海でハルゼー指揮の機動部隊の攻撃を受けるが、米機動部隊が栗田艦隊を発見しそちらの攻撃に向かったため、西村艦隊はそれ以降機動部隊の攻撃を受けず予定通りスリガオ海峡目指して進撃した。
ミンダナオ海を抜けてレイテ沖海戦のスリガオ海峡夜戦(昭和19年10月25日未明)において、志摩艦隊に先んじて敵艦艇(戦艦6隻、重巡4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇37隻)がひしめくスリガオ海峡に突入した。この突入は栗田艦隊がシブヤン海において激しい航空攻撃を受けて一旦西へ退避したことによりレイテ湾に突入する時間が前後してしまったためである。ただ闇雲に突入したと誤解されがちだが西村長官は逐一自隊の状況を栗田長官に報告している。
またレイテ湾内部の状況は24日午前2時に最上から飛ばした偵察機(午前6時50分にレイテ上空到達、敵情を偵察し正午に見取り図入りの報告球を山城と扶桑に投下)情報によって自隊の数倍の水上勢力があるという敵情を把握していた。これに及んで栗田長官から「主隊と合同にて突入」の旨の指示が全く無く、また志摩長官とも協議をすることも無く(正確には出来なかった)出撃したため単独突入を決意したものと見られる。
24日午後11時にカミギン島の北方で魚雷艇の襲撃を受けたものの反撃。この時被害なし。その後「〇一三〇にレイテ湾突入」と栗田長官に打電。〇二五三にレイテ湾入り口にさしかかった時、「時雨」から「ディナガット島寄りに敵駆逐艦発見」の報告より照射砲撃。しかし煙幕を張って退避したように見えたが実は大量の魚雷を発射していた。姉妹艦の「扶桑」がアメリカ海軍駆逐艦が放った魚雷4本を受け右に逸れて戦線離脱、その後「扶桑」は炎々と燃え上がり火薬庫に引火、大爆発を起こして真っ二つに裂けて漂流、その後沈没した。
次に左前方より駆逐艦が現れ魚雷を発射。自隊は次々に被雷した。それでも前進を続け3時51分より「山城」はアメリカ海軍の戦艦と巡洋艦からレーダー射撃を受け、自らも前方に見える砲火の閃光を目標に応戦した。しかし命中弾と駆逐艦の魚雷攻撃により艦の速度が低下、その後被雷により機関が停止。火薬庫に引火して爆発を起こした。その最後は壮絶であったようでこの爆発までの間、前部主砲は砲撃を続けていたのが米軍でも確認されている。この爆発の衝撃は激しく艦橋が前に崩れ落ちるのが確認されている。
その後急速に傾斜し始め篠田艦長は総員退去を命令するが間も無く午前4時19分に右舷へ転覆して艦尾から沈没した(-190m / 623 fsw)。生存者は10名足らずとされている(本当はもっと生き残っていたのだが鮫に食われたり、救助されるのを拒み自決したり、運良く陸地に上陸した乗組員も原住民に殺害されたりしてこの数になってしまった)。米軍がこの戦闘に発射した砲弾は大口径弾300発、中、小口径弾4,000発と言われる。
なお、山城を使用した敵上陸地点への突入作戦はこれ以前にも立案されていた。それはサイパン島陥落時に神重徳大佐が「私を山城の艦長にして下さい。サイパン島に殴り込みをかけます」と提案したものであったが、成算がないとして却下されている。ここで戦闘力速力防御力どの点から言っても、当時の日本戦艦では最も突入作戦の成功率が低いはずの山城が出て来るあたり、山城の不遇な状況を如実に表しているといえよう。
[編集] 艦上機発艦実験
1922年(大正11年)3月29日、山城第2砲塔上に滑走台を設け陸上機の発艦実験を行った。航空機はグロースター・スパローホーク戦闘機で3回の実験全てが成功した。この成功以降、5500トン型軽巡洋艦に滑走台が設けられた。しかしその後の用兵側の評判は良くなくカタパルトが実用化されると滑走台形式は廃れることとなった。
[編集] 主要目一覧
要目 | 新造時 (1917年) |
大改装後 (1935年) |
レイテ沖海戦時 (1944年) |
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排水量 | 基準:32,720t 常備:33,800t |
基準:39,130t 公試:43,580t |
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全長 | 215.80m | 224.94m | ← |
全幅 | 28.96m | 34.60m | ← |
吃水 | 9.08m | 9.49m | |
主缶 | ← | ||
主機 | ブラウン・カーチス式直結型タービン | 艦本式タービン4基4軸 | ← |
軸馬力 | 80,000shp | 82,000shp | ← |
速力 | 22.5ノット | 24.5ノット | |
航続距離 | |||
燃料 | |||
乗員 | |||
主砲 | 四一式35.6cm連装砲6基 | ← | ← |
副砲 | 四一式15.2cm単装砲16門 | ← | 同14門 |
高角砲 | 8cm単装4門 | 12.7cm連装4基 | ← |
機銃 | 40mm連装2基 13mm4連装4基 25mm連装8基 (40mmにかえて後日装備) |
25mm3連装8基 25mm連装17基 同単装34挺 13mm連装3基 同単装10挺 |
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魚雷 | 53cm水中発射管6門 | なし | ← |
その他兵装 | 21号電探1基 22号2基 13号2基 |
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装甲 | 水線305mm 甲板64mm 主砲天蓋152mm |
水線305mm 甲板100mm 主砲天蓋152mm 縦壁75mm |
|
搭載機 | なし | 3機 カタパルト1基 |
← |
※ ←は左に同じ(変更無し)。空白は不明。1944年は推定を含む。
[編集] 公試成績
項目 | 排水量 | 出力 | 速力 | 実施日 | 実施場所 | 備考 |
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竣工時 | 23.3kt | 19年(大正5年)12月19日 | ||||
大改装後 | 24.5kt? | 1934年(昭和9年)12月14日 |
[編集] 歴代艦長
[編集] 艤装員長
- 志津田定一郎 大佐(1916年4月1日就任)
- 中島資朋 大佐(1916年12月1日就任)
[編集] 艦長
- 中島資朋 大佐(1917年3月31日就任)
- 加藤雄次郎 大佐(1917年12月1日就任)
- 大内田守繁 大佐(1919年11月20日就任)
- 増田幸一 大佐(1920年11月20日就任)
- 小山武 大佐(1921年11月20日就任)
- 高橋節雄 大佐(1922年7月1日就任)
- 島崎保三 大佐(1922年11月10日就任)
- 高橋律人 大佐(1923年12月1日就任)
- 大湊直太郎 大佐(1924年12月1日就任)
- 伊地知清弘 大佐(1925年12月1日就任)
- 益子六弥 大佐(1926年12月1日就任)兼任
- 寺島健 大佐(1927年3月1日就任)
- 東林岩次郎 大佐(1927年12月1日就任)
- 豊田貞次郎 大佐(1928年12月10日就任)
- 岩村兼言 大佐(1929年10月5日就任)兼任
- 小槙和輔 大佐(1929年11月30日就任)
- 寺本武治 大佐(1930年12月1日就任)
- 真崎勝次 大佐(1931年12月1日就任)
- 糟谷宗一 大佐(1932年12月1日就任)
- 小島謙太郎 大佐(1933年11月15日就任)
- 南雲忠一 大佐(1934年11月15日就任)
- 大熊政吉 大佐(1935年11月15日就任)
- 小林仁 大佐(1936年12月1日就任)
- 阿部嘉輔 大佐(1937年10月20日就任)
- 角田覚治 大佐(1938年11月15日就任)
- 五藤存知 大佐(1939年9月15日就任)兼任
- 原鼎三 大佐(1939年11月15日就任)
- 緒方真記 大佐(1940年10月15日就任)
- 小畑長左衛門 大佐(1941年5月24日就任)
- 大和田昇 大佐(1942年9月1日就任)
- 早川幹夫 大佐(1943年3月1日就任)
- 久宗米次郎 大佐(1943年8月2日就任)
- 田原吉興 大佐(1943年11月25日就任)昭和19年5月5日戦死
- 篠田勝清 少将(1944年5月6日就任)10月25日戦死
[編集] 参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第1巻 戦艦Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0451-2
- 歴史群像編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.30 扶桑型戦艦』(学習研究社、2001年) ISBN 4-05-602444-8
[編集] 同型艦
[編集] 関連項目
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敷島型 | 敷島 | 朝日 | 初瀬 | 三笠 | |
香取型 | 香取 | 鹿島 | |
薩摩型 | 薩摩 | 安芸 | |
筑波型 | 筑波 | 生駒 | |
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