小野清一郎
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小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年1月10日 - 1986年3月9日)は、日本の法学者。専門は刑法、法哲学。学位は法学博士。1958年日本学士院会員、1972年文化勲章。元東京大学名誉教授。弁護士。法務省特別顧問。
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[編集] 人物
仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の旧派後期理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。
[編集] 学説
その刑法学説では、京都学派の滝川幸辰と共にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し[1]、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の刑法学の基礎を築いた。 小野は、犯罪論における後期旧派の立場から犯罪の本質は応報としての道義的責任であり、かかる道義的な義務に違反することを違法性、国民の道義的な観念に基づく犯罪行為を類型化したものを構成要件とする。滝川が前期旧派の立場から構成要件の犯罪限定機能を重視したのに対し、小野の構成要件理論においては、構成要件は違法及び責任と質的に異なるものではなく、行為を全体的に観察することによって構成要件該当性を認めることができるとされ[2]、犯罪限定機能を有しなかった。
刑事訴訟法学説において、構成要件は違法有責類型であるから、検察官が構成要件に該当することを立証すれば、被告人は違法有責でないことを立証しなければならないとして立証責任を転換し、構成要件と刑事訴訟法における公訴事実を同じものであるとした[3]。
上記の滝川の刑法学説はその内容が自由主義的であるとして滝川事件の発端となったのに対し、上記の小野の理論は、戦前の全体主義的な流れに抗することができず、戦後弟子である団藤重光に受け継がれ、復権をとげることになる。
[編集] 略歴
岩手県盛岡市出身。盛岡中学校(現 盛岡一高)卒業後、一高(現 東京大学教養学部)独法科を首席で卒業。東京帝国大学在学中に、刑法学者の牧野英一に私淑するも、自身は客観的犯罪論を唱え、牧野の主観的犯罪論を批判。1917年東京帝国大学法科大学独法科を首席で卒業。1933年法学博士(東京帝国大学)。
司法官補、予備検事等を経て、1919年東京帝国大学法科大学助教授兼東京地方裁判所検事、1922年東京帝国大学法学部教授。1946年免官、1947年弁護士登録、1955年東京第一弁護士会会長。1946年から1952年まで教職不適格教授指定、1946年から1951年まで公職追放。1956年から1980年まで法務省特別顧問。1957年から1977年まで愛知学院大学教授。1972年には岩手県出身者として3人目の文化勲章を受章。1958年東京大学名誉教授。
[編集] 著書
- 『犯罪構成要件充足の理論』(有斐閣、1928年)
- 『刑事訴訟法』(有斐閣、1928年)
- 『犯罪構成要件の理論』(有斐閣、1953年)
- 『刑法講義総論〔新訂版〕』(有斐閣、1958年)
- 『刑法講義各論』(有斐閣)
- 『法律思想史概説』
- 『日本法理の自覚的展開』
- 『刑法と法哲学』
- 『法学概論』
- 『歎異抄講話』