小笠原猛
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小笠原 猛(おがさわら たけし、1941年8月18日-)は、主に特撮テレビドラマ作品の映画監督・演出家。東京都出身。
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[編集] 経歴
父親は東映のプロデューサー。その関係からか映画監督を志し、日本大学藝術学部入学。しかし、1960年に中退し、NET(現・テレビ朝日)に契約社員として入社。その後1964年に東映テレビプロダクションに移籍。以後『ザ・ボディガード』、『特別機動捜査隊』、『特捜最前線』、『鉄道公安官』などの一般ドラマや『快傑ズバット』、『忍者キャプター』などのキャラクターものの東映テレビプロ制作の作品で助監督を務める。特に彼が師事したのは村山三男、田中秀夫といった諸氏である。
1981年『それゆけ!レッドビッキーズ』46話で監督デビュー。その後、1982年から始まる『宇宙刑事ギャバン』をはじめとする宇宙刑事シリーズで監督として頭角を現す。1984年の『星雲仮面マシンマン』では初のパイロット&メイン監督を務め上げた。以降、東映・吉川進プロデューサー制作番組にはほぼ全てに携わる番頭的存在となる。独特な演出で活躍するが、役者からは「怖い」「口が悪い」との声も聞かれる。小笠原について渡洋史は「おっかないおじさん」、河合亜美は「口の悪いことで有名なカントク」、羽村英からは「キレやすい性格で、愛情表現が裏に出る人」とインタビューや自身のホームページで冗談交じりに評されている。また役者を高い場所に立たせることでも有名で、栗原敏は「こんな高い場所に立たせるな!」と激怒したが、小笠原は「ここに立たせたいからお前をロケに連れてきたんだ!!」と逆に怒鳴り返したそうである。
1992年よりスーパー戦隊シリーズに移動。『恐竜戦隊ジュウレンジャー』以降の戦隊シリーズ4作品で50本を監督。そして『超力戦隊オーレンジャー』を最後に東映テレビプロとの契約を解除、同社を退社した。これに関しては彼の後盾だった吉川進プロデューサーの定年退職の影響や、同テレビプロがスタッフの刷新や若返りを図ったためのリストラ政策の一環ともいわれている。
その後残念ながら映像での演出作品はなく、役者養成スクールに講師として関わっている。 また鈴木美潮の主催するイベントには度々ゲストとして登場している。
[編集] 作品(監督)
[編集] テレビドラマ
★は吉川進、○は阿部征司、△は堀長文、▲は鈴木武幸プロデュース作品
- それゆけ!レッドビッキーズ(1980-1982年、東映・テレビ朝日)※監督デビュー&助監督兼任 9本担当○
- 宇宙刑事ギャバン(1982年-1983年、東映・テレビ朝日)※助監督兼任 4本担当★
- 宇宙刑事シャリバン(1983年-1984年、東映・テレビ朝日)※1,2話は助監督。14本担当★
- 星雲仮面マシンマン(1984年、東映・日本テレビ)※パイロット 14本担当★○
- 宇宙刑事シャイダー(1984年-1985年、東映・テレビ朝日)11本担当★
- 兄弟拳バイクロッサー(1985年、東映・日本テレビ)※パイロット 2本担当○
- 巨獣特捜ジャスピオン(1985年-1986年、東映・テレビ朝日)※最多演出 20本担当★
- 時空戦士スピルバン(1986年-1987年、東映・テレビ朝日)※最多演出 18本担当★
- 超人機メタルダー(1987-1988年、東映・テレビ朝日)※パイロット&最多演出 11本担当★
- 仮面ライダーBLACK(1987-1988年、東映・毎日放送)※最多演出 12本担当★△
- 仮面ライダーBLACK RX(1988-1989年、東映・毎日放送)12本担当★△
- 機動刑事ジバン(1989-1990年、東映・テレビ朝日)6本担当★△
- 特警ウインスペクター(1990-1991年、東映・テレビ朝日)※最多演出 16本担当△
- 特救指令ソルブレイン(1991-1992年、東映・テレビ朝日)16本担当△
- 恐竜戦隊ジュウレンジャー(1992-1993年、東映・テレビ朝日)12本担当▲
- 五星戦隊ダイレンジャー(1993-1994年、東映・テレビ朝日)※最多演出 12本担当▲
- 忍者戦隊カクレンジャー(1994-1995年、東映・テレビ朝日)12本担当★▲
- 超力戦隊オーレンジャー(1995-1996年、東映・テレビ朝日)※最多演出 14本担当★▲
[編集] オリジナルビデオ
- 巨獣特捜ジャスピオン総集編(1986年、東映)※新撮パートの演出
[編集] 映画
- 仮面ライダーBLACK(1988年)