安倍寛
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安倍 寛(あべ かん、明治27年(1894年) - 昭和21年(1946年)1月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(通算2期。第20、21期)。日本進歩党に所属した。
政治家の安倍晋太郎(元外務大臣)は長男。安倍晋三(前内閣総理大臣)、岸信夫(参議院議員)は孫。妻・静子は陸軍軍医監本堂恒次郎の娘(後に離婚)。
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[編集] 来歴
山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割→現・長門市)に安倍彪助・タメの長男として生まれる。安倍家は江戸時代、大庄屋を務め酒と醤油の醸造を営み地元の名門として知られた豪家である。父・彪助は郡内で名門として知られる椋木家からの婿養子であり母・タメは安倍家の「中興の祖」となった慎太郎[1]の妹である[2]。
東京帝国大学法学部政治科を卒業。「金権腐敗打破」を叫んで1928年の総選挙に立つも落選。1933年に日置村村長に就任。その後、山口県議会議員などを経て、1937年の総選挙にて衆議院議員に当選(連続2期当選)。
いわゆる“ハト派”であり、第二次世界大戦中、1942年の翼賛選挙に際しても東条英機らの軍閥主義を鋭く批判、無所属・非推薦で出馬し当選した。戦後第一回の総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死した。
政治家としては長男の晋太郎が後継者という事にはなるが、晋太郎が国政の場に立ったのは、寛の死後12年経ってからの事である。
[編集] 人物像
- 若いころ、脊椎カリエスと肺結核を患い、健康的には恵まれなかった。寛の叔父にあたる慎太郎も32歳の若さで亡くなっている。
- 大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰(昭和の吉田松陰)」などと呼ばれ人気が高かったという。寛の長男である晋太郎と娘との結婚話が持ち上がった岸信介は「大津聖人の息子なら心配ない」と述べたという。
- 元農林大臣の赤城宗徳とは当選が同期で、公私にわたって親交が深かった。
- 派遣軍の慰問のため、満州に派遣されたことがある。
- 三木武夫元首相とは親友であった。
[編集] 参考文献
- 『気骨 安倍晋三のDNA』 講談社 2004年 44-49頁