周防猿まわしの会
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周防猿まわしの会(すおうさるまわしのかい)は、山口県光市を拠点に活動する猿まわしの団体。1977年12月2日結成。2004年(平成16年)8月26日に光市の無形民俗文化財に指定。
数百年の歴史があったという猿まわし芸は、明治維新後は山口県の周防の猿まわしを残して、日本全国から消滅。その周防の猿まわしも差別などのため、1963年(昭和38年)を最後に一時途絶え、その後、山口県光市において猿まわしの存在はタブーになり、過去に行われていたことが公言されることはなくなっていた。
1970年9月に俳優の小沢昭一がレコード『日本の放浪芸』シリーズのために日本全国の放浪芸を調査。その一環で、山口県光市に猿まわし芸の調査にまわったことから、猿まわし師の孫で光市議会議員の村崎義正と知り合ったのが結成のきっかけになった。
小沢の熱意にうたれた村崎は猿まわしの復活を決意し、その後、民俗学者の宮本常一や民俗文化映像研究所の姫田忠義の協力を受けて、1977年12月2日に隣保館で周防猿まわしの会が結成された。初代の会長には村崎が就任した。
光市をはじめとする山口県の地方自治体から補助金を得て、さらに企業と市民からも寄付を得て集めた1千万以上の資金を基に活動を開始。かつて猿まわしの仕込師だった老人の協力で猿を調教したがうまくいかず、東京でかつて夫婦で猿まわしをしていた女性(重岡フジ子)の指導により、村崎の四男の村崎太郎を猿まわし師の後継者にして、1978年9月3日のイベント「光市五万人虹の祭典」で猿まわし芸を初披露した。この模様はNHK総合テレビ『新日本紀行』で全国に放送されて反響を呼ぶ。
かつての猿まわしは戸別訪問を行なうドカ打ちと、街頭で行なう大道芸であるバタ打ちがあったが、周防猿まわしの会では経済的に自立するために結成当初から、効率のいいバタ打ちしか行なわず、自主公演と呼んで、日本全国を回っている。1回の公演は15分から20分で、1日の数十回の公演をこなし、1980年代は1日の売り上げは平均で20万円から30万円だった。
バタ打ち以外にもマスメディアを通じた活動も行なった。1987年に猿のチョロ松がウォークマンのテレビCMが評判になったり、1988年にフジテレビのバラエティ番組『笑っていいとも!』を通じて村崎太郎と反省猿の次郎が人気となるなどしている。
2007年現在、常設劇場として阿蘇猿まわし劇場(熊本県阿蘇郡南阿蘇村)、河口湖猿まわし劇場(山梨県南都留郡富士河口湖町)を運営。猿まわし師の育成も行い、日本国外で公演をするなど、猿まわし芸の伝承と振興に力を尽くしている。
[編集] 参考文献
- 広瀬鎮『サルの学校』中公新書、1981年
- 村崎義正『猿回し上下ゆき』筑摩書房、1983年
- 朝日新聞学芸部編集『戦後芸能史物語』朝日新聞社、1987年
- 重岡フジ子【語り】・田口洋美【聞き取り】『おんな猿まわしの記』はる書房、1994
- 遠藤ケイ『男の民俗学』山と渓谷社、1995年
[編集] 関連項目
- 村崎義正 - 周防猿まわしの初代会長。
- チョロ松 - 周防猿まわしの会所属の猿(現在3代目)。初代がテレビCMに登場し人気となる。
- 村崎太郎 - 初代会長村崎義正の息子。猿の次郎とのコンビが人気に。後に周防猿まわしの会から独立。