吉野ヶ里遺跡
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吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)とは、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50haにわたって遺構が残る、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。
1986年からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(88番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
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[編集] 概要
佐賀県東部は、福岡県境に標高1,000m前後の背振山地を北端に、背振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野(筑紫平野)、有明海へと移るにつれて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの背振山地南麓の丘陵地帯の1つである。
最終氷期が終わってからの温暖期には縄文海進と呼ばれる海面上昇があったため、吉野ヶ里丘陵の南端付近まで有明海が広がっており、最も海面が高い縄文時代前期には海岸線は遺跡から2~3km程度と非常に近かったと推定されている。この海岸線は、温暖化による海面上昇と筑後川をはじめとした有明海に注ぐ各河川の土砂の堆積作用によって次第に後退したと考えられている。
現在でも有明海は干潮時と満潮時の潮位差が平均5~6mと大きく、遠浅の干潟が広がっている。発掘された遺構から、すでに縄文時代にはこの地域に集落があったと考えられている。その時代に集落が形成された原因として現在推定されているのは、この地域が当時海に近かったことが大きく関係している。有明海の大きな干満差(これを利用して移動する航法が現在も残っている)や筑後川などの河川(縄文海進時には筑後川河口はもっと遺跡に近かったと推定されている)を利用して船の行き来が容易だったこと、貝類やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
海面は時代が新しくなるにつれて低くなり、弥生時代には現在の神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近が海岸線となると同時に多数の河川とつながる筑後川の河口があったと推定されており、この地域は船を通じた人や物の移動拠点として発達した(当時の遺構から、すでに弥生時代にはこの地域に港のようなものがあったと推定されている。この後奈良時代には、諸富津が現在の佐賀市大和町にあった肥前国府の国府津として機能したと推定されている)と考えられている。吉野ヶ里遺跡の東西両側には、現在も城原川と田手川が流れており、この川を通して吉野ヶ里丘陵にも人や物の交流があったと考えられている。
以上のような背景から、現在の吉野ヶ里遺跡の中核をなす弥生時代の集落ができ、紀元前4世紀(縄文時代晩期)~紀元3世紀(弥生時代後期)までの約700年間継続した。その後は、後述に詳しく述べるように平野部に集落が移り、海面の低下によって広がった広大な平野が稲作の中心となる。
[編集] 発掘された遺構
吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に深く掘られた総延長約2.5kmの外壕が囲んでいる範囲は約40haにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ策が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘された。
多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではないかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。1998年には、九州で初めてとなる銅鐸が遺跡の周辺部で発見された。九州北部で製造されたと推定されており、形状から福田型銅鐸とみられている。
出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるが、中国大陸、朝鮮半島、南西諸島と共通・類似したものも多く見られており、吉野ヶ里への渡来人の来航や吉野ヶ里から各地域への渡来によるものとみられる、さまざまな面での共通性が見られる。
また、遺跡内にある3基の前方後方墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられている。
[編集] 歴史
[編集] 縄文時代
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。紀元前400年ごろには、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが後に大規模な集落へと発展することになる。
[編集] 弥生時代
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環壕が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。
[編集] 古墳時代
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。3世紀ごろには、集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。
また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
[編集] 律令制時代
奈良・平安の律令制時代には、神埼郡の役所的な性格の建物があったと推定されている。
律令制時代には土地の区画整理を条里制と言ったが、「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、旧神埼郡内には他にも「○○ヶ里」という地名が多く見られる。
[編集] 近代以後
佐賀の乱の際は付近で激戦が展開されたが、戦前から、少しずつ遺物の出土が見られるようになり、少数ながらもこの遺物や遺構を学術的に研究する動きが始まる。しかし、大きな盛り上がりを見せることはなかった。
[編集] 工場団地造成計画
1970年代に、農地や果樹園造成、土採りによって遺跡の一部が壊される。また、このころから吉野ヶ里丘陵一帯の広い範囲で甕棺が出土するようになった。また、県立高校の移転改築の候補地になったが、広範囲にわたって遺物が出土していたため断念された。
1970年代後半に佐賀県によって調査が計画されたが、事前調査に追われて実施に至らなかった。
1980年代に入って、企業誘致の為に佐賀県は吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画する。その際文化財発掘のための事前調査を1982年から始める。1986年の本格調査によって、約59haもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明し、県は工場団地計画を縮小する。
[編集] 本格的な発掘
考古学者の佐原真をはじめとして、県や市民団体による啓発活動が高まりを見せ、1989年2月23日、一部の報道機関によって大々的な報道が始まる。ちなみに、この前日の2月22日が「吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日」とされている。これにより連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり、同年3月には県は遺跡と重複する地域の開発を中止する。
その後1990年5月に史跡、1991年4月に特別史跡に指定され、1992年には閣議によって国営歴史公園の整備が決定する。
報道がなされた当初は、邪馬台国に関係する遺跡ではないかとも見方もあり、一部で九州王朝説も取り上げられた。現在は、九州北部にあった複数の「クニ」の1つに過ぎないのではないかという見方が大勢を占めている。
[編集] 吉野ヶ里歴史公園
吉野ヶ里歴史公園 |
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敷地面積 | 54ha |
吉野ヶ里公園管理センター | |
所在地 | 〒842-0035 |
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843 | |
電話番号 | 0952-53-9333 |
公式サイト | 吉野ヶ里歴史公園 |
吉野ヶ里遺跡とその周辺部の117haが公園として整備されることが決定されている。公園としての整備が決定した後、公園となる部分の最終調査を経て、遺跡の状態を損なわないように盛土によって保存し、その上に復元や植樹を行い公園整備を行った。整備計画区域内にはまだ発掘を終えていない部分が多数残っており、現在のところ整備されて公園として開園しているのは58haにとどまっている。このうち、国営部分が27haで、残りは県営となっている。
吉野ヶ里歴史公園で実際に復元されているのは、環濠、竪穴住居、高床住居、物見櫓(柱の跡や木材が遺構として残っており、これから復元されている)、柵、逆茂木、高床式倉庫、墳丘墓などである。遺構の保護やさらなる発掘のため、もともとあった場所から異なる場所に復元されたものもあるが、盛り土をして遺構を保護した上でもともとあった場所の真上の同じ場所に復元されたものもある。また、遺跡の周辺部では、遠くからも分かる目印として物見櫓が立てられているところもある。公園の南端はJR九州の長崎本線に接しており、同線の吉野ヶ里公園駅と神埼駅の間では列車内から物見櫓等の建造物を遠望することができる。
出土品の多くが、公園内にいくつかある施設内に保管され、展示が行われている。実際に手で触ることができるものもある。
公園では、「弥生人の声が聞こえる」をテーマに整備・情報発信を行っている。年に十数回イベントが企画され、古代の文化や生活の体験ができるほか、多くの店も並ぶ。テーマのように、弥生人の生活を再現したイベントや企画が多く、勾玉などの装飾品の試作、当時の衣服の試作・試着、古代米の育成、当時の食事体験などの参加型のものが多数ある。
- 休園日:1月1日、12月31日、1月の第三月曜日とその翌日
- 利用料金や駐車料金あり。
[編集] 出典
- 吉野ヶ里遺跡とは どのような遺跡か
- ブント・ワークショップ 吉野ヶ里遺跡・土井ヶ浜遺跡を訪れて 長田武
- 有明海の造陸現象 水土の礎
- 古代の佐賀平野と有明海 下山昌孝、『古田史学会報』四十四号、2001年6月6日
- 吉野ヶ里遺跡に見る「古代都市」 高島忠平、『Consultant』Vol.237
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 特別史跡 吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
- 吉野ヶ里歴史公園
- 国営吉野ヶ里歴史公園事務所 国土交通省 九州地方整備局