弥生時代の墓制
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本項では、弥生時代の墓制(ぼせい)について詳述する。
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[編集] 概観
縄文時代は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としてはストーンサークルが知られるが、弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。また、縄文期には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)が中心だったが、弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。また弥生期の墓制は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があった。社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じた。
[編集] 甕棺墓
甕棺墓(かめかんぼ)は、甕・壺を棺とする墓である。弥生時代前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる。甕棺墓は縄文時代から一部に見られていたが、甕棺は小型でありもっぱら乳幼児の葬送用であった。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始める。この頃は、支石墓の直下に甕棺を埋葬する形態も見られた。弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎える。主として前原市付近、福岡市付近、佐賀県神埼郡付近などに分布していた。弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。
弥生時代の甕棺墓の特色は、成人を埋葬した点、成人埋葬用に大型の甕棺を製造した点にあり、世界的にも非常に珍しいとされている。甕棺は、各時期ごとに共通点を持っており、甕棺を製造する工場があったと想定されている。また各時期ごとの共通点を元に、研究者によって緻密な編年体系が構築されている。
甕棺内部では、遺体を屈める屈葬(くっそう)がとられていた。屈めた遺体を甕棺に密閉することで、死者の魂を閉じこめようとする思想があったのではないかと考える論者もいる。また、副葬品を伴う甕棺と遺体のみの甕棺とがあり、社会階層の分化の表れだと推定されている。
- 甕棺墓の項も見よ。
[編集] 支石墓
日本の支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。
もっとも古い支石墓は、唐津市東宇木にある葉山尻支石墓で、五基ある。天井石は長さ二メートル前後の巨石である。その支石墓から弥生時代前期の打製石鏃が一つ出土している。
朝鮮半島の影響を考慮すると、支石墓の被葬者は半島からの渡来人であると想定されていたが、実際に考古学的に分析してみると、被葬者は縄文人的特徴が強いことが判った。その謎を解明するため、いくつかの説明が試みられているが、明確な結論は出ていない。
支石墓は、弥生時代前期のうちに北部九州から消滅していったが、その周辺の五島列島や愛媛県などへ、ごく限定的ながらも伝播していった。
- 支石墓の項も見よ。
[編集] 石棺墓
石棺墓(せっかんぼ)は、板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺墓ともいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。弥生中期には、北部九州で甕棺墓が主流となり、石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。
[編集] 木棺墓
木棺墓(もっかんぼ)は、木製の棺を用いる墓である。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。木棺を作るには、製板技術が必要であり、そのためには金属器(または磨製石器)の使用が不可欠であることから、弥生時代前期に出現したと考えられている。しかし木材は土中の保存状態が悪く、その実態は詳しく判っていない。
近畿地方では弥生前期に、木棺を方形の墳丘で埋め、周囲に溝を掘る方形周溝墓が登場した。(詳しくは後述)
[編集] 墳丘墓
遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく。
[編集] 方形周溝墓(方形低墳丘墓)
弥生時代前期、近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。1964年に大場磐雄が東京都内にある宇津木向原遺跡で調査したものに命名したものが学史上では初出であるが、それ以前にも各地で性格がつかめないまま確認されていた。最近では、方形低墳丘墓(ほうけいていふんきゅうぼ)と呼ばれることも多くなっている。また、従来、古墳時代初頭まで続く墓制とされた方形周溝墓について、近年の土器編年などの研究の進展によって、初期古墳や前期群集墳としてとらえる考え方が出てきたのに伴って、方形墳(ほうけいふん)と呼ぶ研究者も現れるようになった。
方形周溝墓には複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。
弥生中期には、山の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播した。弥生前期の中部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、方形周溝墓が伝わると墓制の主流となった。方形周溝墓はその後、東北地方へも広がった。
墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えれているが、北部九州では方形周溝墓は極めて少ない。
[編集] 大型墳丘墓
弥生後期、近畿地方や瀬戸内海沿岸で、それまでより規模の大きい墳丘墓が営まれ始める。特に吉備地方(岡山県〜広島県東半)では、全長数十メートルに及ぶ墳丘墓も現れ、埴輪の祖型である大型の壺や器台を伴うようになる(吉備型特殊器台)。なかでも岡山県倉敷市の楯築墳丘墓は直径約45メートル、高さ約5メートルの円丘の両側に方形の張り出しを持ち、全長約80メートルもある双方中円墳の形をしている。この地域の代表的な首長の墓と考えられ、その築造年代は、卑弥呼の時代である3世紀前後に比定されている。
これらの墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。そのため、墳丘墓の呼称を弥生後期の大規模なものに限るべきとする意見が、多数となりつつある。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。墳丘墓にはまだ地域性が見られたが、古墳は全国斉一的であり、大きな差異は見られなくなっている。このことは、3世紀中盤を画期として、九州から東日本にわたる統一的な政権が確立したことを示唆している。
[編集] 四隅突出型墳丘墓
四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。弥生時代後期の能登半島や美作・備後の北部地域や出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に見られる墳丘墓である。源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓発展したという可能性もある。広島県の三次盆地に発祥したという。
日本海側を中心に約90基が確認されている。北陸地方では現在までに計8基が知られている。
墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。
このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしは大和朝廷以前に成立していた王朝を想定する論者もいる。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいる。
四隅突出型方墳の最初の発見は、1969年島根県邑南町瑞穂で順庵原(じゅんなんばら)一号墳であり、北陸地方での最初の発見は1974年の富山市杉谷の杉谷4号墳である。 最も発展した時期の様相は、例えば、島根県安来市荒島地域にある仲仙寺(ちゅうせんじ)8・9号墓(国の指定史跡、十数個の碧玉製管玉)、宮山4号墓(鉄刀)、安養寺1・3号墓などに副葬品や小石から貼り石へと構造の変化に発展系列がみられる。 3世紀前後の時期では、島根県出雲市の西谷3号墓(最長辺約50メートル)・4号墓・9号墓と前述した安来市の宮山、仲仙寺、塩津山墳丘墓や鳥取県の西桂見墳丘墓が代表的大型墳丘墓である。これらの大規模な墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓がほぼ同時期に存在したと推測されている。そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊壺・特殊器台や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。このことは、山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられる。
[編集] 弥生時代区分
晩期
早期
前期
中期
後期
終末