古賀敬章
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古賀 敬章(こが たかあき、1953年4月25日 - )は、日本の政治家。
[編集] 概要
ラ・サール中学校・高等学校、東京大学法学部を卒業後、全日空に就職。しかし大学時代の親友である中川昭一の衆院選出馬を受けて会社を辞職し、北海道で選挙を手伝う。中川の当選後は地元に戻り、県議選に出馬。当選後、自由民主党に入党する。
県議時代、自民党山口県支部連合会青年局長を務め下関を地盤とする衆院議員、安倍晋太郎の薫陶を受けた。しかし安倍の死去後、同じく下関出身の衆院議員、林義郎系県議との県連の内部抗争や、安倍の息子である安倍晋三との後継者争いに巻き込まれ自民党を離党、小沢一郎らが結成した新生党結成に参加。その直後の第40回衆議院議員総選挙に旧山口1区から立候補し初当選。
1996年の第41回総選挙では新進党公認で山口4区から出馬するが安倍晋三に敗北。その後、下関市長選挙に出馬するが安倍晋三の支援を受けた現職に敗れる。
2001年には自由党公認、2004年には民主党公認で参院選に比例区より出馬するが、いずれも落選に終わり、実家の建設会社も破産し選挙でも支援した関連業者が軒並み多額の負債を抱えたために政界引退を表明。
2007年11月、福岡4区を地盤とする元衆議院議員、楢崎欣弥が政界引退を表明、古賀を後継指名する。しかし地元4区の党支部や後援会にとって寝耳に水の話であった(一部関係者のみに楢崎が報告)。そのため最終決定を党福岡県総支部連合会に一任し公認内定。[1]
古賀は地元・下関の支持者に対し報告をせずに引退表明を翻し、活動を再開した。。[2]
[編集] 脚注
- ^ 読売新聞2007年11月16日
- ^ 平成20年3月現在、古賀の地元である下関(山口4区)の候補者は未定で、山口県連のサイトも副代表の肩書きのままである(民主党山口県連のサイト参照)。