北畠晴具
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 文亀3年(1503年) | |||
死没 | 永禄6年(1563年) | |||
別名 | 親平・具国(別名)、天祐(法号) | |||
官位 | 従四位下、左近衛中将、参議、伊勢国司 | |||
氏族 | 北畠氏 | |||
父母 | 父:北畠材親 | |||
兄弟 | 北畠晴具、神戸具盛 | |||
妻 | 正室:細川高国の娘 | |||
子 | 北畠具教、木造具政、北畠具親 |
北畠 晴具(きたばたけ はるとも)は、伊勢の国司である北畠家の第7代当主である。
文亀3年(1503年)、第6代当主・北畠材親(具方)の子として生まれる。永正14年(1517年)、父の死去に伴い、家督を相続する。永正15年(1518年)には第12代将軍・足利義晴から一字を拝領して晴具と名乗った(初名は具国)。
北畠晴具は文武両道の名将で、弓馬は達人で和歌をよくし、能書家でもあった。大永元年(1521年)には細川高国らとともに歌合せを北畠家本拠地の多気御所で実施する。大永2年(1522年)には連歌師・宗長を御所に招き、逗留させて連歌の興行も行っている。また、高国が多気御所に造った庭園は、現在北畠氏館跡庭園と呼ばれ、国指定の名勝となっている。
享禄2年(1529年)、細川高国・足利義晴が三好元長・柳本賢治に敗北し、近江朽木谷へ逃亡した。その際に細川高国は娘婿である北畠晴具に援軍要請のため、伊勢へ下向してきた。晴具は支援を行ない、細川高国は享禄4年(1531年)、再起を図り摂津まで侵攻し、細川晴元や三好元長と摂津天王寺で戦うも敗北し、大物浦で討死し、支援には失敗した。
天文年間に志摩の鳥羽城を攻撃し、支配下に収める。そして小浜氏ら国人を掌握して志摩国をほぼ制圧した。その後、大和にも進出して吉野を制圧し、支配下に収めている。しかしこの大和侵攻により、大和諸国人との対立が発生し、筒井氏・越智氏・十市氏・久世氏らと合戦に及んでいる。紀伊へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。晴具は伊勢国内でも長野氏と争い、天文12年(1543年)には伊勢国南部の領有をめぐり、長野藤定との対立が激化した。晴具は垂水鷺山に出陣、長野藤定も出陣し合戦となった。長野軍は細野氏・分部氏を主力に晴具を迎撃し、激しい戦闘の末、決着はつかずに双方退却することとなった。長野氏が降伏するのは次代の具教の頃である。
天文5年(1536年)には出家し、天祐と号した。天文22年(1553年)には隠居して家督を嫡男の北畠具教に譲った。永禄6年(1563年)に死去。享年61。
[編集] 人物・逸話
- 武将としてだけでなく文化人としても有名で、現在の北畠神社にある館内庭園は有名である。
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