列車砲
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列車砲(れっしゃほう)とは、通常、地上では運用が困難な大口径砲を列車に搭載し、鉄道のレールの上を走行させることによって移動を可能としたもの。貨物列車に装甲を施し、火砲を搭載した装甲列車とは一般的に区別される。(装甲火砲列車はソ連やポーランドが多数運用していた。ドイツも鉄道警備用に運用している。)
[編集] 概要
列車砲の概念は、1853年にイギリスのアンダーセンが著した"National Defence"(国防)というパンフレットに現れたのが最初である。ロシアでも1860年代には、同様の主張が表れている。
列車砲が実用化されたのは、南北戦争中(1861年-1865年)のことであった。1864年のピーターズバーグ要塞をめぐる戦いにおいて、北軍が13インチ臼砲を無蓋列車にのせて運用したのが、初の列車砲とされる。
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてドイツ軍が要塞や塹壕攻撃などに使用したものが有名である。第一次世界大戦中においては、パリ砲と呼ばれる射程120キロの長距離砲でパリに超遠距離砲撃を行った。これに脅威を感じた連合国はヴェルサイユ条約でドイツに対し列車砲を含む重火器の保有を禁止したが、未知の技術であったミサイルの保有は禁じられなかった。このためドイツはミサイルの研究に取り組み、世界に先駆けてV2ロケットなどの弾道ミサイルの実用化に成功した。
第二次世界大戦においては、グスタフ、ドーラ、トール、ロキ、レオポルド、ベルタなどが知られる。砲の直径と口径はまちまちであるが、全長10m程度の車台に、直径数十cm・長さ2m程度の砲弾を撃ち出せる大砲を置き、最大射程数十km(ベルタは100kmを超えた)を誇った。カーブの付いたレールの上を走らせることで、射界を確保した。ただ欧州の鉄道のレールの幅は地域ごとにまちまちで(当時から欧州統合論者はいたが、現実には、攻め込まれた際敵の鉄道輸送を妨害する方が優先された)、他国に持ち込むには一度分解する必要があった。
また、日本においては千葉県の富津岬に配備されていた。砲身はフランスから輸入し、車台や付属する電源車は国産であった。後に日中戦争が始まると富津岬に配備されていた列車砲は改軌の上、満州国に送られソ満国境の虎頭要塞に配備された。しかし、ソ連軍の侵攻時には解体されて後方に移送中(理由は不明)であり、一説によるとソ連軍に追いつかれて捕獲されたという。 また、実現はしなかったが純国産の列車砲を開発する計画も存在していた。
列車砲は編成を含めてその大きさは格好の目標であり、移動においては線路に制限されるという関係上、制空権を確保していない状況においてはその運用は困難であった。特に特別な複線が前提となっていた一部の巨大な列車砲は運用そのものに制限を受けていた。第二次世界大戦時に出現した大型の爆撃機はすでに列車砲の砲弾以上の威力のある爆弾を投下することが可能となっており、列車砲の射程と爆撃機の航続力を考慮すれば列車砲の活躍の場は少なかった。ただし、航空機には天候・命中率・防空など、その性能を常に発揮できるわけではなく、同様に列車砲も適切な状況で運用した場合には、圧倒的な破壊力を発揮した。又、ドイツでは地形が許せば隧道(トンネル)を利用しての射撃(撃つ時だけ出て撃ったらすぐに隧道内に戻る)で敵の攻撃を避けるといった方法もとっていた。
[編集] 主な列車砲
[編集] 関連項目
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