八条宮智仁親王
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八条宮 智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう、天正7年1月8日(1579年2月3日) - 寛永6年4月7日(1629年5月29日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての皇族。八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の娘・新上東門院(藤原晴子)。幼称は六宮・胡佐麿、一般には八条の皇子とよばれた。兄に織田信長の猶子となった五宮がいた。
織田信長が天皇家の邦慶親王を猶子にしていたのに習い、豊臣秀吉も公家の今出川晴季の斡旋により、1586年に天皇家の智仁親王を猶子(ゆうし)とした。猶子とは家の相続権のない養子のことである。1589年(天正17年)秀吉に実子鶴丸が生れたことにより、同年12月八条宮家を創設した。1591年(天正19年)1月に親王宣下を受けた。1600年(慶長5年)細川幽斎から古今伝授を受け、甥にあたる後水尾天皇に相伝し、御所伝授の始まりとなった。家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮はその後桂宮と呼ばれるようになった。
さて、関ヶ原の戦い直後、兄の後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えた。そこで、時の天下人である徳川家康に譲位の旨を打診したが、家康は智仁親王が秀吉の猶子であることから反対した。そして結局、皇位は1611年に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなったのである。
1629年、51歳で薨去。子孫は八条宮(桂宮)家や清華の広幡家として栄えた。
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