八条宮智忠親王
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八条宮智忠親王(はちじょうのみや としただしんのう、元和6年11月1日(1620年11月24日) - 寛文2年7月7日(1662年8月20日))は、江戸時代前期の日本の皇族。八条宮(桂宮)第2代。八条宮智仁親王第1王子、生母は丹後国主京極高知の娘京極常子。幼称は若宮、多古麿(たこまろ)。
寛永元年(1624年)後水尾天皇の猶子となり、寛永3年(1626年)12月親王宣下を受け、忠仁(ただひと)と命名される。後に智忠親王と改称する。寛永6年(1629年)2月元服して、中務卿に任じられる。同年4月父智仁親王の薨去により宮家を継承する。寛永19年(1642年)9月前田利常の女富子を妃とするが、後嗣を儲けることはできなかったため、承応3年(1654年)後水尾天皇の第13皇子穏仁親王を養子とする。明暦3年(1657年)二品に叙せられる。寬文2年(1662年)7月7日死去。44歳。法名は天香院。
智忠親王は、父智仁親王の影響を強く受け、学問を好んだ。和歌、書道に秀でていた。最大の功績は桂離宮を後世に伝える上で基礎を築いたことである。父智仁親王が造営した桂の別荘(桂離宮)は父の没後、しばらく荒廃していたが、智忠親王はこれを改修し、御殿を増築し、庭園を整備することに努めた。
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