伊達宗孝
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時代 | 江戸時代後期(幕末)から明治時代 | |||
生誕 | 文政4年3月17日(1821年4月19日) | |||
死没 | 明治32年(1899年)5月20日 | |||
別名 | 伊織、稿之輔(幼名)、楽堂(法号) | |||
墓所 | 東京都品川区の東禅寺 | |||
戒名 | 総宜院殿楽堂達孝大居士 | |||
官位 | 従五位下、和泉守、若狭守、侍従 贈従三位 |
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藩 | 伊予吉田藩主 | |||
氏族 | 山口伊達氏→伊達氏 | |||
父母 | 父:山口直勝、母:蒔田広朝の娘 養父:伊達宗翰 |
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兄弟 | 山口直信、伊達宗城、伊達宗孝 | |||
妻 | 正室:島津忠徹の娘 側室:近藤氏、中大路氏、大畑氏 |
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子 | 寿若、於信(伊達宗敬正室)、文 準一郎、隼(高崎正風室)、於兎若 庸之助、元(近藤勘助室)、泰、慶 応、誠之助、登貴子、片倉建吉 鉄次郎、豊四郎、五郎、六七郎 伊達宗弘、富貴子(伊達宗旺室) 養子:伊達宗敬 |
伊達 宗孝(だて むねみち、1821年4月19日(文政4年3月17日) - 1899年(明治32年)5月20日)は、伊予吉田藩の第8代藩主。宇和島藩8代藩主伊達宗城の実弟である。
文政4年(1821年)3月17日、3000石の旗本で伊達家の血を引く山口直勝の3男として江戸で生まれる。天保10年(1839年)5月21日に第7代藩主・伊達宗翰の養子となり、天保14年(1843年)6月24日の宗翰の隠居により、家督を継いで第8代藩主となる。12月16日に従五位下・和泉守に叙位・任官し、弘化2年(1845年)4月4日に若狭守に遷任する。
しかし旗本の出身で江戸育ちのため、財政難で苦しむ吉田藩の内情を無視し、江戸に在府しては帰国せずに藩政を怠り、派手な生活を行なって6000両の借金を新たに築く有様だった。このように名君といわれた兄・宗城と正反対の行動をとった理由は兄と仲が悪かったためともいわれ、幕末期は佐幕派として行動し、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも幕府方として行動したため、新政府から罪を問われかけたが、兄の仲裁により7月23日に宗孝が家督を養子(甥)の伊達宗敬に譲ることを条件にして許された。
明治4年(1871年)の廃藩置県後は東京に移り、後に明治天皇の侍従となった。明治32年(1899年)5月20日に東京で死去。享年79。
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