伊達村信
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保5年3月5日(1720年4月12日) | |||
死没 | 明和2年5月21日(1765年7月8日) | |||
別名 | 左京、刑部(幼名)、村冬(初名) | |||
墓所 | 愛媛県宇和島市吉田町の大乗寺 | |||
戒名 | 環中院殿本融道玄大居士 | |||
官位 | 従五位下、紀伊守 | |||
藩 | 伊予吉田藩主 | |||
氏族 | 伊達氏 | |||
父母 | 父:伊達村豊 母:須磨(斎藤氏・本寿院) |
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兄弟 | 金之助、虎竹、藤十郎、伊達村澄 伊達村信、繁、百合、上杉義枝 伊達成房、鉄、伊達徳行、久徳成朝 恒川久定、藤十郎、玉造要人 |
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妻 | 正室:松平信友の妹・於園 継室:諏訪忠虎の娘・於栄 側室:久美(木村氏・唯光院) 志野(木谷氏)、清美(清見氏) 縫(丹波氏) |
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子 | 豊松、伊達村賢、慶(南部信依室) 伊達成武、伊達成寿、澄(上杉義寿室) 道(小笠原長有室)、保五郎 稔(荻野采女室)、松田常辰 |
享保5年(1720年)3月5日、第3代藩主・伊達村豊の5男として生まれる(生年は享保3年(1718年)とも)。享保20年(1735年)12月2日に世子に指名され、元文2年(1737年)に父が死去したため、家督を継いで第4代藩主となった。12月16日に従五位下・紀伊守に叙位・任官する。
幕命により公家の接待役、朝鮮通信使来日による負担、江戸城神田橋門番などの負担をはじめ、虫害や風水害に悩まされて藩財政が悪化したにも関わらず、対応策をとらなかった。宝暦13年(1763年)9月8日、家督を次男の伊達村賢に譲って隠居する。明和2年(1765年)5月21日、吉田で死去。享年46。
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