伊藤忠治
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伊藤 忠治(いとう ちゅうじ、1934年(昭和9年)5月2日 - )は、日本の政治家である。三重県津市出身。
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[編集] 概要
- 津市の実家の家業が経済苦になった都合で高校進学の経済力がなく、中卒後印刷会社に就職・社長さんに印刷工場に真面目に勤務をすることを条件に高校に通学させて下さいとお願いをして、津実業高校(現三重県立みえ夢学園高等学校)定時制の勤労学生となる。戦後の金の卵と呼ばれた労働者の出世組の通信系労組出身議員である。
- 現在数人しかいない定時制高校出身の国会議員だった。
- 通信系労組/NTT 旧全電通労組出身の郵政族で通信組織関係の著作NTT出版通信ビックバンを書いている
- 小泉純一郎首相の郵政民営化反対の野党民主党の郵政族であった。郵政解散前の民営化法案の反対討議を最後の議員活動とした。
- 高校2年の途中鈴鹿市白子の電気通信省の職業学校鈴鹿電気通信学園にも通い、1952年日本電信電話公社に入社した。
- その後、さらに向学心を持ち、三重短期大学法経科2部を卒業した。
- 1972年 昭和47年全電通中央本部執行委員。
- 1978年 昭和53年全電通三重県支部委員長。
- 1983年 昭和58年急死した田口一男の後継として旧日本社会党から中選挙区三重1区で衆議院議員初当選。以後連続3回、1983年、1986年、1990年当選、内2回トップ当選、社会党副書記長を務めた党内改革派。
- 1993年 平成5年社会党大敗の選挙で落選。
- 民主リベラル勢力の結集を目指して新党の上げ潮ブームを期待して、民主党三重を旗揚げする。
- 1996年 平成8年社会党から民主党結成に加わり、三重2区から立候補、中川正春に敗れるが、東海比例区で復活当選する。2000年、新進党から、同じ民主党となった中川正春との調整で東海比例区単独上位で優遇される。2003年自由党との合併協議で比例単独はすべて不採用になり、菅直人・岡田克也から打診され三重4区に鞍替え候補者となり、東海比例区で当選する。
- 民主党国会対策筆頭副委員長、2004年民主党両院議員総会長などを務める。
- 静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[1]。
- 2004年の年金未納問題の際に5年2か月間未納であったことが発覚した。
- 2005年平成17年三重4区を三重短期大学の後輩の当時県議であった森本哲生を後継にし、政界を引退した。
[編集] エピソード
- 高校時代、小学校時代の田中角栄と同じく発声障害のひどいドモ=吃音だった。タ、チ、ツ、テ、トから始まる言葉はドモって発言できなかった。担任の教師より室長としてクラスを代表して弁論大会にでるように言われ、先輩の毎夜の猛特訓でドモを克服して弁論大会に優勝をした。柔道やバスケに加え、コーラス活動をし、ハンサムで美声であった親友の交通事故死の悲劇を津実業50周年史で語っている。その悲劇から人生1度しかないものとして命を尊ぶ死生観と哲学をもっている。1983年初当選の選挙は全電通労組の組織力と15歳から働いてきた真面目な勤労者のイメージが好感を呼びトップ当選する。1986年の衆参ダブル選挙は社会党に逆風が吹いていたが、同時に民社党の中井ひろしにも逆風が吹き、伊藤忠治が最下位で滑り込み当選、中井氏が落選する。1990年は消費税選挙、土井たか子ブームで風が吹きトップ当選する強さだった。引退時の記者会見で1993年の落選時、トップ当選2回の実績から、伊藤忠治は大丈夫とマスコミに当確を言われて、安心しきっていたことを振り返っている。当選後から大衆政治家として庶民に日の当たる政治を実行している。好物はうどんで県内のおいしい店に詳しく庶民らしい大衆政治家である
[編集] 政治信条
政治家になったきっかけは、経済的不公平をなくす正義感からで、自身が家庭の経済的な理由で昼間の高校・大学ではなく、夜間の高校・大学で働きながら学んだことから、経済的不平等をなくさなくてはならない、経済的弱者、それによる教育が受けられない、弱いものの味方のため、政治家になった事をモットーとする、庶民政治家である。菅直人とは当人が社民連・伊藤氏が社会党時代からの親しいおいこらの仲ある。以前開設していた、伊藤忠治ホームページで1ドル=1円の新通貨に切り替える、デノミネーション政策を提唱していた。拉致事件実行犯の釈放を求める署名をした人物に、ネット上に挙げられ、民主党内サヨク議員と見られる事も多い。 政策の基本理念は平和、人権、環境、福祉の4つを守り大切にする事。社会党時代直接カンボシアを視察してPKO問題を直接自分の目で見た行動派である。
[編集] 尊敬する人物
[編集] 好きな言葉
愛人尊命 人を愛する命を尊ぶ意味