丸岡城
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丸岡城 (福井県) |
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丸岡城天守 |
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通称 | 霞ヶ城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | 独立式 2重3階望楼型 |
築城主 | 柴田勝豊 |
築城年 | 1576年 |
主な改修者 | |
主な城主 | 本多氏、有馬氏 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 現存天守、移築門、石垣 |
指定文化財 | 国史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯36度9分8.72秒 東経136度16分19.72秒 |
丸岡城(まるおかじょう)は福井県坂井市丸岡町霞にある平山城跡。江戸時代には丸岡藩の藩庁となった。
目次 |
[編集] 概要
城は福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれ、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。 全国に12箇所しか現存していない天守を有する城郭の一つである(現存天守、国の重要文化財)。その他、石垣が現存している。移築現存する建物として、小松市興善寺およびあわら市蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の民家に、不明門と伝わる城門がある。ほかに土塀が現存する。五角形の内堀は現在埋め立てられているが、この内堀を復元する計画が浮上している。
[編集] 天守
独立式望楼型2重3階で、一階平面を天守台には余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている。屋根瓦には笏谷石製の石瓦が寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる。[1]
[編集] 天守の建造年
天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲したフォルムにより現存12天守の中で最古とされることがあるが、それについて犬山城天守との論争がある。柴田勝豊の建造である場合、1576年となるが、建築史の観点では、慶長期の特徴を多く見ることができるとして、1596年以降の築造若しくは、改修による姿ではないかという説もある。[2]
[編集] 歴史・沿革
[編集] 安土桃山時代・江戸時代
- 天正4年(1576年)に越前の領主柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
- 天正10年(1582年)本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
- 天正11年(1583年)柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、丸岡城主に青山宗勝(修理亮)を置いた。宗勝の子・忠元は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍方につき改易された。越前国には徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には結城家家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
- 慶長17年(1612年)盛次は越前騒動に連座し失脚した。成重[3]が4万3千石で新たな城主に据えられた。
- 寛永元年(1624年)成重は秀康の子・松平忠直が不行跡により豊後配流となると、そのまま大名に列し丸岡藩が成立した。
- 元禄8年(1695年)4代重益の時、お家騒動が起こり改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏6代の居城となり明治維新を迎えた。
[編集] 近現代
- 明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり天守以外全て解体された。
- 明治34年(1901年)残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に埋められ消滅した。
- 昭和9年(1934年)天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定される。
- 昭和23年(1948年)福井地震のために倒壊。
- 昭和25年(1950年)文化財保護法(新法)施行により天守は重要文化財に指定される[4]
- 昭和30年(1955年)倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直し修復された。
- 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(36番)に選定された。
- 平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 観光
[編集] アクセス
JR北陸本線「福井」駅から京福バス「本丸岡行き」で約40分「丸岡城」下車すぐ。
- 日本100名城スタンプ設置場所
- 一筆啓上茶屋(霞ヶ城公園内)
[編集] 関連項目
- 日本の城一覧
- 日本100名城
- 日本さくら名所100選
- マルクスブルグ城(ドイツ、姉妹城)
- 現存天守
- 乱 (映画) - 1985年公開の映画で炎上する城のモデルとなり、事前に黒澤明監督が視察に訪れた。
- 福井青春物語 - 2005年公開の映画のロケが行われた。