ヴィリゲリム・ヴィトゲフト
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ヴィリゲリム・カールロヴィチ・ヴィトゲフト(ロシア語:Вильгельм Карлович Витгефтヴィリギェーリム・カールラヴィチュ・ヴィードギフト;ドイツ語:Wilhelm Karlowitsch Withöftヴィルヘルム・カルロヴィッチ・ヴィートヘフト、1847年10月14日‐1904年8月10日)は、帝政ロシアの海軍軍人。日露戦争では旅順艦隊司令長官として黄海海戦を戦ったが、戦死した。
[編集] 経歴
ドイツ系の家庭にオデッサで生まれる。1868年に海軍学校を優良な成績で卒業し、クリッパー「フサードニク」乗組員として世界周航。1870年に下士官、1873年に少尉に任官する。1875年から3年間、砲術と機雷の専門教育を受ける。のちバルチック艦隊に配属される。1885年、航洋砲艦「グロザー」で初めて艦長を務める。1892年に水雷巡洋艦「ヴォエヴォーダ」艦長。1894年一等海士に昇進、2等巡洋艦「ナエーズニク」の指揮を取る。1895年からは1等巡洋艦「ドミートリイ・ドンスコイ」、1898年からは装甲艦「オスリャービャ」の艦長を務める。1899年10月26日、極東艦隊に転属し、エヴゲーニイ・アレクセーエフ総督の参謀長となる。同時に准将に昇進。
1904年の日露戦争勃発後、4月にステパン・マカロフ提督が戦死すると後任の第一太平洋艦隊司令長官に任命される。前任者とは対照的に、優勢な日本海軍の前に旅順港内に閉じこもって戦力を温存する策を採ったが、旅順が日本軍の包囲を受けると退嬰的な姿勢が批判を浴び、ついには皇帝ニコライ2世の電報を受けて8月10日にウラジオストク港への脱出を目指して出撃する。
港から40海里を過ぎたところで東郷平八郎率いる連合艦隊に捕捉され、海戦となる。その最中、ウィトゲフトが居た旗艦「ツェサレーヴィチ」艦橋の司令塔を12インチ砲弾が直撃、戦死した。彼の死はロシア艦隊に大混乱をもたらし、艦隊は組織的な脱出に失敗した。
[編集] 外部リンク
- 略歴紹介及び写真 (ロシア語)